武富済
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武富済の肖像写真

武富 済(たけとみ わたる、1879年明治12年)4月23日 - 1937年昭和12年)4月20日)は、日本検事弁護士衆議院議員[1]憲政会立憲民政党)。旧字体では武富 濟。
略歴

愛知県碧海郡刈谷村(現在の刈谷市)出身。東京府尋常小に編入し、府立一中[2]二高を経て、1904年東京帝国大学法科卒業。司法官試補を経て、検事任官[1]塩野季彦小原直らと共に小林芳郎一門。

主な経歴として、東京区裁判所地方裁判所検事、大審院検事事務取扱。シーメンス事件帝人事件と並び、戦前の三大疑獄とされた日糖疑獄及び内外石油疑獄では、小林芳郎東京地方裁判所検事局検事正の下で、南谷知悌、小原直、小山松吉、三浦栄五郎らと共に家宅捜査や贈収賄者の取調べ担当にあった。特に、後者の内外石油疑獄では、小原と共に事件担当となったが、小林芳郎らの抵抗も空しく、桂太郎総理の鶴の一声で、松室致検事総長、平沼騏一郎司法省刑事局長以下、本件捜査を見合わせることで終幕した[3]。さらに1910年大逆事件である「幸徳事件」における幸徳秋水検挙の功労者だとされている[1][4]

1912年、検事を退職し弁護士となり、東京弁護士会常議員会議長となる。1924年に憲政会公認で衆議院選挙に立候補、初当選。連続5期務める。立憲民政党総務など歴任。1929年小選挙区制法案に反対し、3月12日の衆議院本会議では法案審議を14日に延期する動議の趣旨説明を行った。武富の趣旨説明は、5時間30分にわたる長時間演説[5]となった。全国の選挙区を、郡・自治体別に詳細に取り上げ、さらに与党・立憲政友会院内会派新党倶楽部批判を始めたが、清瀬一郎副議長に討論を打ち切られた。これは憲政史上最長記録である。

同年、濱口内閣が成立すると初代拓務参与官に就任した[1][6]
脚注[脚注の使い方]^ a b c d 「 ⇒刈谷人物名鑑(30)」(PDF)『かりや市民だより』第1870号、刈谷市、2004年9月、p. 12、2010年1月19日閲覧。 
^ 『東京府立第一中学校五十年史』巻末「如蘭会員及現在生徒名簿」(東京府立第一中学校,1929年)参照
^ 『小原直回顧録』(小原直、1967年) P27、P29
^ 『WhoPlus(フー・プラス)』(2005年、日外アソシエーツ
^ 途中、午後7時から8時5分まで休憩が入ったため、実時間は6時間を超えた。
^ 『日本官僚制総合事典 1868-2000』(東京大学出版会, 2001年)など参照

関連項目

大逆事件幸徳事件

冤罪

牛タン戦術











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