韓 啓章[1](かん けいしょう、? - 紀元前409年)は、韓武子[2](かん ぶし)ともいい、春秋戦国時代の晋の卿。
韓啓章は韓虎(韓康子)の子として生まれた。紀元前425年、韓虎が死去すると、韓啓章は後を嗣いだ[3]。同年、楚の莫敖の昜為が宋の公室を平定し、黄池や雍丘に築城しようとした。韓啓章は魏斯・趙浣らとともに軍を率いて黄池を包囲し、楚軍を撤退させた。紀元前423年、昜為率いる楚軍が宜陽を奪い、赤岸を包囲した。韓啓章は魏斯・趙浣らとともに軍を率いて赤岸を救援すると、楚軍が包囲を解いて撤退した。さらに韓啓章らは長城で楚軍と戦って破った[4]。同年、韓啓章は鄭を攻撃し、鄭の幽公を殺害した。紀元前409年、韓啓章は死去し、子の韓虔(景侯)が後を嗣いだ[3]。
脚注[脚注の使い方]^ 『史記索隠』韓世家
^ 『史記会注考証』韓世家所引中井積徳は、韓にふたりの武子がいるのは怪しむべきことだと指摘している。
^ a b 『史記』韓世家
^ 『清華簡』「繋年」21章
参考文献
『史記』韓世家
先代
韓虎韓氏当主
第11代次代
(韓虔)→韓の景侯
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