武士道
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「武士道」のその他の用法については「武士道 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「士道」はこの項目へ転送されています。高槁ツトムの漫画については「SIDOOH/士道」をご覧ください。
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武士道(ぶしどう)とは、日本近世以降の封建社会における武士階級の倫理道徳規範及び価値基準の根本をなす、体系化された思想一般をさし、広義には日本独自の常識的な考え方を指す。

ただし明確な定義は無く、時代のほか、身分や地域によってもその解釈は大きく異なる[1]。また理想化された美学宗教的な側面もあり、その実像とは大きく異なる場合がある[注釈 1]
歴史

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出典検索?: "武士道" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2018年2月)

武士道に通ずる考えは、武士平安時代以降)の行動の規範意識に基づき、鎌倉時代に本格的に発達した。すなわち武力を持つ者は鍛錬・行使・身の処し方などを徹底すべきであり、独りよがりや私事へ存念するような見苦しいものではあってはならないとする日本独自の規範意識を指す。

「独りよがりであってはならない」との考えは、次第に、その他者の対象はより普遍へ向かった(民衆・生き物・学問・芸術・世の中の伝統などに対して)。一方、武士は命をかけて組織へ殉ずることが近世には美化されていった。

江戸時代に、支配階級である武士には文武両道の鍛錬と自分の命を以って徹底責任を取るべきことが求められるに至った。武士が私事で刀を抜くことは重大な責任を問われ、生涯、刀を抜かない武士も少なくなかった。また民衆騒動が起きた領地の藩主へ幕府より切腹が申しつけられることがあった。
萌芽.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに甲陽軍鑑の原文があります。ウィキソースに北条五代記の原文「関東昔侍形義異様なる事」があります。ウィキソースに北条五代記の原文「文武弓馬の道は常なり。しるすに及ばず」があります。ウィキソースに管窺武鑑の著者・夏目定房による前田利長評、原文「丹羽長重事、利長取持にて、権現様御赦免を蒙る。利長誠の武士道なり」があります。 1860年。 写真: フェリーチェ・ベアト.「武道」、「家訓」、「戦陣訓」、および「武家故実」を参照

鎌倉時代、日本において武家政権が本格的に始動し、武士の地位が確立する。また時を同じくして、禅宗中国からもたらされ、武士階級に大きな影響を与える。ここで「弓馬の道」(兵〈つわもの〉の道)と呼ばれる、武士道の起源とも言うべき生活規範が成立した(これは、西洋における騎士道が成立した時期と重なる)。そして室町時代から戦国時代にかけては、室町文化を根底として、武士を中心とする各種様式が花開いた。武芸においては剣術兵法三大源流が興り、芸能では能楽茶道などが武士の教養となり発展した。ここまでの一連の時代の中では未だ「武士道」と呼ばれる言葉は存在しなかったものの、公家やそのほか社会階級とは全く異なった、武士特有の価値観(美意識)・道徳観が存在していたことは確かであった。

武士が守る道徳的規範を示す言葉として「弓馬の道」があり、主従関係、礼節、武勇、廉恥、質実を尊ぶことが美徳された[2]

「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物は、江戸時代初期に成立し、原本が武田家臣春日虎綱(高坂昌信)の口述記とされる『甲陽軍鑑』である。ここでの武士道は、個人的な戦闘者の生存術としての武士道であり、武名を高めることにより自己および一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いている。「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という藤堂高虎の遺した家訓に表れているように、自己を高く評価してくれる主君を探して浪人することも肯定している。『北条五代記』は「早雲寺殿。二十一ケ條と號し。侍一生涯身の行のヘを。しるしをかれたる文有。其?二十ケ條に。武道のさた一言なし。終の一ケ條に。文武弓馬の道は常なり。しるすに及ばず」と記す。また、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」という朝倉宗滴の言葉に象徴されるように、卑怯の謗りを受けてでも戦いに勝つことこそが肝要であるという冷厳な哲学をも内包しているのが特徴である。これらは主に、武士としての生き方に関わるものであり、あくまでも各家々の家訓であって、家臣としての処世術にも等しいものである。普遍的に語られる道徳大系としてのいわゆる「武士道」とは趣が異なる。

武士道は江戸時代には武道ともいわれたがこれはのちに武術を指すようになった。
発展と深化

道徳大系としての武士道は主君に忠誠し、親孝行して、弱き者を助け、名誉を重んじよという思想、ひいては「家名の存続」という儒教的態度が底流に流れているものが多く、それは江戸期に思想的隆盛を迎え、武士道として体系付けられるに至る。しかし無論、儒教思想がそのまま取り入れられた訳ではなく、儒学の中では『四書』の一つとして重要視されている『孟子』を、国体にそぐわないものであると評価する思想家は多い。この辺りに、山岡鉄舟が言うような武士道の武士道たる所以があるものと言える。また、思想が実際の行動に顕現させられていたのが、武士道としての大きな特徴である。
山鹿素行の批判

江戸時代の安定期に山鹿素行は「職分論」の思想へ傾いていく。武士がなぜ存在するのかを突き詰めて考えた山鹿の結論は武士は身分という制度ではなく自分が(封建)社会全体への責任を負う立場であると定義をすることで武士となり、(封建)社会全体への倫理を担うとするものであった。例えば朱子学は、人間は自分の所属する共同体へ義務を負うとした。この共同体で最上のものは国家である。国家を動かすシステムは幕藩体制でありこれはそのまま武士階級の倫理を意味している。山鹿はこれに対し人間は確かに国家に属しているが武士に(封建)社会全体への義務を負わせることを選んだ存在も確かにいるとした。これは人間でもなく、社会でもない。人間は自ら倫理を担うものであり、社会は倫理に基づいて人間が実践をする場である。国家という制度のように目には見えないが武士を動かしたそれを山鹿は天とした。そのうえで自らが所属する共同体への倫理(主家への忠義など)と天からあたえられた倫理(天倫)が衝突した場合に武士は天倫を選択すべきと考えた。

幕府は山鹿を処罰した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}山鹿は朱子学を批判したが、制度により共同体がつくられ所属する人間に倫理を担わせると考えるのは現実には学校や会社という制度で今日も生きており、逆に山鹿の考え方は少数派となっている。[独自研究?]

山鹿素行を古学士道の大成者と位置づける井上哲次郎は、新渡戸稲造とその著作『武士道』を「キリスト教徒の妄想が勤皇に悖る」など激しく批判した[3]


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