武士団
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武士団(ぶしだん)とは、武士の組織集団を指し、日本の中世[1]における集団形態を指す。主君宗家を頂点とした家族共同体家産官僚制官司請負制)である。武家の棟梁が最頂点に位置する。

日本中世史における学術用語として1930年代から使われ始めた[2][3]
「武士」「武士団」という言葉

古代では戦闘目的の為に組織された集団を「軍(いくさ)」と呼んだ[4]律令制下の国家軍隊である軍団も「軍(いくさ)」であり、公な上官と部下とで組織された

対して、「武士団」は武士の集団形態を指し、平安時代に「兵(つわもの)」と呼ばれた武力層達が私的に従える集団から始まり、中世室町時代)に亘った。戦後初期の第一線の中世史の研究者が「武士」を問題とするとき、その対象は鎌倉幕府成立の基盤としてとらえられた「武士団」であり、それが中世的な在地支配の形態とセットで、「中世の成立」と不可分なものとして研究されてきた経緯がある。その戦後初期の武士在地領主論では、武士を武士団と同義ととらえている。
「武士」という言葉詳細は「武士」を参照

ただし、「武士」という言葉自体は平安時代に使われることは希であった。「武者」という言葉なら平安時代中期の『高山寺本古往来』の、有名な「松影是雖武者子孫(松影はまことに武者の子孫なりと雖も)」という下りにも出てくる。『今昔物語集』は12世紀初頭の成立といわれるが、呼ばれ方は「兵(つわもの)」「豪の者」である。源平の争乱の時代、つまり12世紀末でも「武者」「弓箭の輩」が多かった。鎌倉時代でも「公家」に対して「武家」である。
武士論の遷移
武士在地領主論

戦後の中世研究史を振り返ると、石母田正の『中世的世界の形成』に始まる第一世代での武士・武士団論は在地領主に主眼を置いたものだった。「武士在地領主論」と呼ばれるものがそれである。詳細は「辺境伯#」を参照

その代表的な論客である安田元久は、武士団を「一定の時代」における、ひとつの構造的特質をもったものととらえる。「一定の時代」に存在するということは、その時代の社会構造の中に存在基盤を持つということであり、武士団の中核たる武士は、単なる武芸者ではなく一定の「社会的・階級的特質」を体現している。そこで言う「社会的・階級的特質」が「在地領主的性格」なのである。そうした武士が戦闘目的の為の集団を組織したときそれを「武士団」と呼ぶとする。そして1970年の『東国における武士団』という小論でこう述べる。在地領主とは、封建社会の形成において、地方の各地に実力をもって農民や土地の支配を作り出していった領主たちであり、しだいに、古代貴族達による支配機構を切りくずし、やがては封建社会の担い手となった階層である。
彼ら在地領主たちは古代的支配に抵抗するとともに、相互の間にも闘争を繰り返す。そうした動きのなかで、必然的に武力が要求され、武力をもって戦う間に、戦闘組織としての武士団が結集され、また領主相互の間に私的な主従関係も作りだされる。こうして武士階級が生まれ、また、武士の社会が形成されるのである…[5]

こうして「武士団」を「中世封建社会の担い手となる在地領主層を中核とする戦闘的権力組織で、内部構造としては、主従的な、階層関係(ヒエラルヒー)が認められるもの」と規程する。安田元久ら、戦後初期の「武士論」は「まず在地領主ありき」であり、そして古代貴族に対立する階級としてとらえていたことがこの一文から良くわかる。

尚、この安田らの武士発生論をデフォルメしたものが教科書の世界に定着し、小中学校では「自分達の土地は自分達で守るという有力な農民が出てきました。これが武士のはじまりです」と教えられてきた。それが修整され始めたのは比較的最近のことであるが、しかし研究者の間では40年近く昔から見直しが進んでいる。
在地領主論への疑問・異論

佐藤進一は1965年の『南北朝の動乱』 の中で、武士を「武芸をもって支配階級に仕える職能人もしくは職能集団」と言い切る[6]。この一文は、武士論を正面から展開する中でのものではなく、南北朝時代に武士の家が敵味方に分裂したことに関連してサラッと書かれた一文なのだが、しかしその後の武士・武士団研究に大きなインパクトを与えた。

更に、戸田芳実は石母田正や安田元久らの、武士階級は農村から権門など古代階級を打ち破る階級として生まれるとする見解に対して、武士は初めから農民と対立する支配者側であったと主張する。その(鎌倉幕府の)担い手である武士イコール在地領主の発展度を研究していくと言うのが従来のスタイルでしたが、社会経済史で、特に農民の常態から考えていくと、貴族も武士も支配対象は同じなんです。両者がひとのものとして民衆に対置される様子が在地の文章を見るといやおうなしに解ります。そうすると、王朝国家のもとで領主が成立すると言うことの意味は、彼らの権力機構が国家の官職をあしがかりとして出来上がると言うことです[7]

引用した対談は1974年のものであるが、それに先立つ1969年12月の法制史研究会総会で、戸田芳実は『国衙軍制の形成過程』[8]を発表、そこで述べた「地方軍事貴族」または「辺境軍事貴族[9]」という概念、そして「国衙軍制」への着目はその後の武士論に大きな影響を与えた。

その同じ研究会で石井進も『院政期の国衙軍制[10]』を発表する。同じ国衙軍制のテーマであるが、戸田は平安時代初期中期の武士発生段階を、石井はその後の院政期について論じた。その石井進は1974年の『日本歴史第12 中世武士団』の中で、有名な国司軍と地方豪族軍の ⇒図式化を行いながら、次ぎのように述べる。誤解を恐れずに単純化すれば武士=職能人論といえるが、武士=在地領主論だけでは不十分な側面を明らかにうきぼりにしてくれると思う。特に通常、いわゆる「開発領主」や在地領主の登場以前とされている段階の初期の武士団、「兵(つわもの)」たちに対してはこの見方の方がより適切なばあいが多かろう。
…とりあえず中世武士団とはなんぞやという問いに対しては、弓射騎兵としての戦闘技術を特色とする武力組織であって、社会実態としては在地の土とむすびついた地方支配者 であるとみておき、それ以上の点については今後の検討にまつ、ということにしたい[11]

それらの学説は「武士職能論」と呼ばれ、その後橋昌明がラディカルな論客として登場する。ただしそれらの分類は決して絶対的なものではない。例えば石井進の国衙軍制論を発展させるとして、「国衙軍制論」を中心に武士を論ずる下向井龍彦は「武士職能論」を激しく批判する[12][13]
武士職能論

橋昌明は、1975年の『伊勢平氏の成立と展開』[14]において、彼らが公的には諸衛府の官人、私的には高貴な貴族の「」、世間的には一種の傭兵隊長であったことを、資料に基づき詳細に明にした[15]

そして武士は京の貴族から生まれた、つまり騎馬と弓箭を中心とした武芸が、奈良・平安時代を通じて、支配階級である都の貴族とその周辺に面々と受け継がれ、それが中世の武士に引き継がれたと言うことを強調した。

高橋はその武士論の前提として、身分を「出生身分」と「職業身分」にまず分ける。「出生身分」とは「イヘ」[16]の社会的格付けであり、公家に仕える下級貴族とその予備軍・侍階級とか言う場合に該当する。そして職業身分とは、平安時代後期の上層階級での社会的分業が、「イヘ」への職能として固定し、その文士、例えば陰陽の家とかいう形で「芸能」としての家業が固定され、官職までが世襲されるようになる段階で、同様に武士という職業身分の類型が生まれるとする[17]「兵(つわもの)の家」「家ヲ継ギタル兵(つわもの)」[18]がそれにあたる。

その整理の上に立って「彼らの経済的基盤がいかなるものであるかは、ここでは中心的な問題ではない。」とに挑戦的に言い切る。しかしそれは橋昌明の武士論は自ら語るように[19]、発生論、「武士という職能」の発生論だからであって、橋昌明は、「武士」の存在の2つの側面、平安時代後期における社会的背景も十分に承知している。わかりにくいと言うなら言葉を補う。私の見解は、武士とは社会的分業が家業の形態をとる歴史的段階において成立する職業身分のひとつ、と言う点にある。そして、武士を武士たらしめるのは王権であるけど、その存在の真の根拠は、当該期社会の自力救済的性格とそれがかかえる矛盾にあった[20]

ただし橋昌明がそうはっきり述べたのは1999年になって、他の研究者からの相次ぐ批判・誤解への回答「諸氏の批判に応える」の中においてである。
武士職能論以降

1972年の段階で、既に「より総合的な視点が」という指摘はなされていた。上横手雅敬は、橋昌明の1971年当時の小論『将門の乱の評価をめぐって』での主張を『シンポジウム日本歴史5』の基調レポートにおいてこう紹介した。在地領主と、軍事身分としての「侍」とが安易に同一視されて、社会発展史上における領主制の役割と、軍事身分としての侍が果たしてきた歴史的役割とが区別されなかったという批判が生まれているが、この批判はあたっていると思います[21]


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