武双山正士
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武双山 正士

2009年9月当時の武双山
基礎情報
四股名武双山 正士
本名尾曽 武人
愛称オソ
生年月日 (1972-02-14) 1972年2月14日(52歳)
出身茨城県水戸市(出生地は勝田市、現在のひたちなか市
身長184cm
体重177kg
BMI52.28
所属部屋武蔵川部屋
得意技突き、押し、突き落とし、巻き落とし、左四つ
成績
現在の番付引退
最高位東大関
生涯戦歴554勝377敗122休(72場所)
幕内戦歴520勝367敗122休(68場所)
優勝幕内最高優勝1回
幕下優勝2回
殊勲賞5回
敢闘賞4回
技能賞4回
データ
初土俵1993年1月場所
入幕1993年9月場所
引退2004年11月場所
引退後藤島部屋師匠
他の活動日本相撲協会副理事(5期)
2016年3月 -
趣味釣り、ラーメンの食べ歩き(現役時代)
備考
金星2個(1個、貴乃花1個)
2024年3月25日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

武双山 正士(むそうやま まさし、1972年2月14日 - )は、茨城県水戸市出身(出生地は勝田市、現在のひたちなか市)で武蔵川部屋に所属した元大相撲力士。本名は尾曽 武人(おそ たけひと)。最高位は東大関身長184 cm、体重177kg。現在は年寄藤島、得意手は突き、押し、突き落とし、巻き落とし、左四つ。趣味釣り独身
来歴
アマチュア時代

父親の尾曽正人(以下、父と表記)は茨城県相撲連盟理事長というアマチュア相撲の大御所でありアマチュア選手として国体に11回出場した経験も持っている。息子である尾曽武人(以下、角界入りまで尾曽と表記)が後に冠した四股名「武双山正士」の下の名前の由来は父の名前にある。尾曽は元々相撲ではなく魚釣りやソフトボールを好んでいた。小学4年生の時に父に「相撲を教えてほしい」と頼んだ際は熱意の程を確かめたいと思った父から「腕立て伏せ30回毎日やり通したら教えてやる」と条件を出され、1か月やり通した尾曽は指導を受けることを許された。そうして父が指導の手腕を振るう「水戸尾曽相撲道場」においてその薫陶を受ける生活が始まり、まず自宅の庭には15尺土俵が、その側に製の鉄砲柱が用意された。稽古を始めてからほどなく、県内のわんぱく相撲大会に出場した尾曽はきわどい判定の末に1回戦で敗退してしまう。納得できなかった尾曽は自分の勝ちであるはずと不服を漏らしたが、父は毅然と「勝ったようにも見える。でも、誰が見ても勝っているというような相撲をとらなきゃダメなんだ」と一喝し、そこから稽古が本格化した。

小学校4年生の頃の尾曽は身長143cmで37kgと他の子供と比べても小さくあぐらもかけないほど柔軟性に欠けていたという弱点を持っており、それ故人一倍の稽古が求められた。具体的に、柔軟体操から始まり、腕立て伏せ、四股踏み、バスケットボールの中にコンクリートを詰め込んだ特製のボールを抱え200回の屈伸運動、すり足で200m、そして四股を踏んだ体制でのうさぎ跳び。夕方4時半からは実際に廻しをつけ、土俵に上がっての稽古を行い、仕上げに自宅にタイヤを積み重ねた重さ100kgの「ぶちかましマシーン」を6m動かす稽古を30往復課された。朝稽古が終わった後の6時半には例として牛乳2本、野菜ジュースチーズ4個、目玉焼き2個、ステーキ2枚、焼き魚たっぷり、生野菜とおひたしをボウルで山盛り、ご飯2膳という大人2人分の食事を父親が作って用意し、食べきらなければ学校に行くことは許されなかった。昼食としても父が腕を振るって用意した二段重ねの特大弁当を持たされ、そればかりかカルシウム補充の目的でポケットには煮干しもねじこまれた。こうした相撲漬けの生活から相撲版「巨人の星」と呼ばれたが、5つ上の姉は「やっていることは、虐待と変わらない」と父の徹底指導を腹に据えかねて猛抗議したことがあり、当の父も「できることなら投げ出してほしい」と内心で願っていたというが、その中でも尾曽は決して投げ出さなかった。尾曽が徹底指導に音を上げなかった陰には土俵外で寧ろ尾曽に甘いとされる父の姿があり、父が尾曽との会話や団欒を惜しまなかったことも関係している。

水戸農業高校3年の時には全国高等学校相撲選手権大会で優勝して高校横綱を獲得。専修大学進学後は故障に泣いた時期もあったが3年生時に全日本相撲選手権大会で優勝してアマチュア横綱を獲得した[1]。父は尾曽が小学4年生の時点で従業員50人ほどの規模を誇る建設会社を経営していた実業家でも知られ、相撲の英才教育に費やした時間と情熱について「息子に注ぎ込んでいたエネルギーを会社に向けていたら、今頃は二部上場していたかもしれない」と語ったことがある。その一方で父は一貫してメディアに出ることを嫌い、その理由を「今あるのは全て息子の努力に立脚したもので、私は環境を作っただけ」と話している。アマチュア時代は「東の尾曽(武双山)、西の山本(土佐ノ海)」と称され、高校時代、大学時代(武双山は専修大学、土佐ノ海は同志社大学)を通じて良きライバルであった。父親と約束していた「角界入りは学生横綱かアマチュア横綱になってから」の条件を達成したので、1993年1月には大学を3年で中退して角界入りした(専修大学からのアマチュア横綱は初、角界入りは大凰に次ぐ。ただし、専修大学卒業者の初関取片山)。
大相撲入門後

アマチュア横綱の実績により、1993年1月場所、幕下付出初土俵。2場所連続7戦全勝で十両に昇進、武双山と名を改めた。最初は武双海と名乗ったが、海という名は自分には似合わないとして武双山と変えたという。武双海の四股名で書いた色紙がごく少数ながら存在するらしく、貴重品であると大相撲中継の解説で話題となったこともある。

貴闘力の証言によると、下半身が異常に太く逞しかったため、腰を下ろした状態からでも当たっていけたという。一方、異常に強い下半身に反して肩関節のハマりが浅く、このように脱臼癖があったことで横綱にはなれなかったのだろうとのこと[2]

その十両も2場所で通過、1993年9月場所には入幕を果たす。このときまだ相撲教習所の生徒であり、相撲教習所の卒業式に出た最初の幕内力士となっている。1994年1月場所は前頭3枚目に昇進し初の上位挑戦だったが、いきなり横綱を下して金星を獲得、そして三賞(殊勲賞)受賞。翌3月場所には小結を通り越して関脇に昇進、初土俵から8場所での関脇は当時の最速記録だった。あまりの昇進の早さに四股名が定着せず、ある日幕内取組で武双山自身物言いがついた時の協議説明の際に、当時の九重審判部長(元横綱北の富士)に「尾曽」の四股名で間違えて呼ばれたこともあった。

廻しの色には、自分のお気に入りの「銀鼠(ぎんねず)」を用いた(NHKの大相撲中継ではいぶし銀またはガンメタリックと言われることもあった)。「平成の怪物」と呼ばれ、当時時代を築きつつあった曙や貴乃花の好敵手として期待された。若乃花には最初2連敗したもののその後8連勝した(最終的な対戦成績は11勝14敗)。1994年9月場所では初日から11連勝して最後まで大関貴ノ花(当時、のち貴乃花)と優勝を争い、一歩及ばなかったが13勝2敗の優勝次点。翌11月場所は早くも大関取りの期待が膨らんだが、場所前左肩の亜脱臼のケガによる稽古不足が影響して、7勝8敗と初の負け越しとなった。小結に下がった1995年1月では初日に新横綱貴乃花を下し、連勝記録を30で止める殊勲の星を挙げたが、6日目の貴闘力戦で左肩を脱臼してしまい途中休場に追い込まれた。その後も左肩脱臼の再発や、足の親指の負傷[3]など怪我が重なった事も有り、6年間大関候補と言われながらも伸び悩んでいた。それでも、1995年5月場所では1横綱2大関に勝ち11勝で殊勲賞と敢闘賞、7月場所では1横綱1大関に勝ち10勝で技能賞。さらに1996年3月場所には関脇の地位で2大関に勝ち12勝3敗の好成績を残すなど、見せ場も存在した。

初めての大関取りだった1996年5月場所は、13日目に5敗を喫して優勝争いからも脱落。当場所千秋楽には、優勝の可能性が残っていた大関の貴ノ浪に勝利し10勝目を挙げた。これで全て三役の地位で3場所合計32勝(10-12-10勝)を挙げたものの、大関昇進への目安とされる合計33勝には届かず、次の名古屋場所に持ち越しとなった。だが翌7月場所は初日から4連勝だったが、その後中日迄に4連敗を喫して4勝4敗と大関昇進は完全消滅、結果7勝8敗と負け越して大関取りは振り出しに終わった。

しかしついに変わりだしたのが1999年で、1月場所で横綱の貴乃花と若乃花に勝ち10勝で殊勲賞、3月場所でまたも脱臼により途中休場してしまうも、その間に横綱に昇進した兄弟子武蔵丸や名古屋場所で大活躍し大関に昇進した弟弟子の出島、さらに弟弟子の雅山の一気の台頭などに刺激され7月場所では11勝、9月場所ではまたも横綱の貴乃花と若乃花に勝ち、1999年11月場所も10勝。
幕内初優勝・大関昇進・関脇陥落・大関特例復帰

2000年1月場所では、千秋楽魁皇(当時関脇)を下して13勝2敗、関脇の地位で念願の幕内初優勝を達成した。久々の大関取り再挑戦となった、翌3月場所でも3日目の土佐ノ海戦で大相撲入り後自身初初の巻き落としが「自然と出た」というほど体の動きが良く、4日目は229kgの曙を放り投げるように突き落とした。曙も「すっげえよ」と、完敗と成長を認めていた。初優勝した際も勝てず、9連敗中の難敵からの3年ぶり白星だった[4]。場所成績は12勝3敗の好成績を残し、三役で3場所通算35勝(10-13-12勝)を挙げ、ようやく遅咲きの大関昇進を果たした。大関昇進伝達式では口上に「正々堂々」の文言を用いた[5]

ところが、その新大関だった5月場所は腰椎椎間板障害[6]で初日から全休。いきなり大関角番で臨んだ7月場所でも腰痛が完治しないまま強行出場したが、結局11日目の土佐ノ海戦で3勝8敗と、大関の地位で2場所連続の負け越しが決定、大関在位が僅か2場所で関脇に陥落の屈辱を味わった(同7月場所は4勝11敗と、武双山自身千秋楽迄皆勤した場所ではワースト敗戦の記録となる)。皆勤負け越しにより角番脱出失敗は「2場所連続負け越しか休場で大関から陥落」とする現行制度では史上初[7]。現在の制度で考えうる最短在位である[8]。それでも関脇に陥落した直後の9月場所で、千秋楽に勝利して10勝5敗、大関特例復帰規定(取り組み日数(現在は15日間)の三分の二(同・10勝)以上の勝ち星を挙げること。ただし、何らかの災害等のため増減が有った場合でも、その三分の二以上で計算する[9])に達して1場所で大関に返り咲いた。奇しくも師匠の武蔵川(元横綱・三重ノ海)も、大関から関脇陥落した1976年7月場所において、1場所で大関特例復帰を経験している。

大関特例復帰後の2001年3月場所には大関魁皇らと優勝を争い、千秋楽に魁皇に敗れたものの12勝3敗の優勝次点という好成績を残した。翌5月場所では、14日目に貴乃花を巻き落としで下す(詳細は後述)相撲も見せ、自身5年ぶりに5月場所で勝ち越した。この取組で貴乃花は右膝半月板を負傷し、千秋楽に強行出場して優勝したものの、翌7月場所からの7場所連続休場を余儀なくされた。しかし、5月場所以降の武双山は最高の成績でも10勝5敗に終わり、優勝争いに参加することは殆ど無い状態だった。力士晩年には途中休場や皆勤負け越しも記録して大関を保つのがやっとで、大関角番と角番脱出の繰り返し、という土俵が続いた。素質からは横綱を期待する声もあったが、左肩脱臼を繰り返すケガなども有って果たせなかった(他に腰痛や足の親指の怪我が致命的だった)。

なお2003年11月場所まで大相撲には「公傷制度」(本場所中に土俵上の大怪我で翌場所全休しても、その翌々場所は翌場所と同じ地位に留まれる制度)が存在していた。しかし2003年3月場所6日目、武双山は左肩脱臼のケガで全治2か月の診断書が出て途中休場したものの、当時の公傷適用は却下されてしまう。師匠の武蔵川親方が抗議したものの、審判委員らはその理由として「脱臼は古傷の繰り返しによるもので、来場所までに回復して相撲が取れるはず」というものだった。左肩の具合が完全に回復しないまま強行出場となった、翌5月場所は通算2回目の大関角番となったが、千秋楽に8勝7敗と勝ち越し角番を脱した。その後も武双山は2003年9月場所5日目、左ひじの骨折を起こし再び全治2か月の診断書が出て途中休場したが、これも公傷認定はされなかった。翌11月場所も9勝6敗と勝ち越して通算3回目の大関角番を脱出。この事から当時の北の湖理事長は公傷廃止を提案し、結果2003年11月場所限りで「公傷制度」は廃止となった。
現役引退

2004年10月2日の横綱武蔵丸引退相撲での土俵入りでは、武双山が太刀持ちを務めた(露払い雅山)。それから約1か月後の同年11月16日(11月場所3日目…この場所は初日から3連敗)を最後に、大関の地位で現役を引退。年寄・藤島を襲名し、二所ノ関一門に渡っていた藤島の名跡を出羽海一門に引き戻した。2006年5月場所からは病に倒れた同じ一門二十山親方(元大関・北天佑。同年6月23日死去)に替わって審判委員を務めた(その後一旦退くが、2010年9月に再任)。2010年9月30日に年寄名跡交換はせずに師匠の武蔵川親方から部屋を継承する形で藤島部屋を創設した。2015年1月29日の理事会を受けて、停年を控えた朝日山親方(元大関・大受)の後任として役員待遇の審判部副部長に抜擢された。[10]2016年1月、役員候補選挙に初出馬し、副理事に当選する[11]。同年3月の職務分掌では審判部副部長に留任すると共に、新たに事業部副部長にも就任し、協会執行部入りした。[12]9月場所、腰の治療のため、場所中審判から外れた[13]

2020年1月30日の自身2度目となる役員候補選に副理事候補として出馬した。定員を超過しなかったため2008年以来6期12年ぶりに無投票となり、理事候補10人、藤島を含めた副理事候補3人が全員当選[14]。同年3月6日の理事会で正式に副理事として選任された[15]

2021年3月場所に武将山が自身初の子飼い関取となっている。

2022年3月11日、協会は1月27日の役員候補選挙で副理事候補に当選した4期連続の藤島を選任した[16]。3月30日の職務分掌により、事業部副部長と審判部副部長(編成担当のため土俵下の職務はなし)の役職が与えられた[17]
エピソード

同じ1972年生まれの元大関・魁皇(現・
浅香山親方。但し学年は武双山の方が魁皇より1年上)とは最大の好敵手であったが、大の親友同士でもあった。


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