正長の土一揆を伝える当時の記録と考えられる柳生の徳政碑文(左)とその拓本(右)。「正長元年ヨリサキ者カンへ四カンカウニヲ井メアルヘカラス」とある。
正長の土一揆(しょうちょうのどいっき/つちいっき)は、室町時代中期の正長元年(1428年)8月から9月に起きた土一揆。正長の徳政一揆(しょうちょうのとくせいいっき)とも呼ばれる。初めての徳政一揆でもある。
概要上掲の徳政碑文が刻まれた柳生の疱瘡地蔵(奈良県奈良市柳生町
室町時代中期にあたる正長元年(1428年)、飢饉、流行病(三日病)、室町幕府内の代替わり(足利義持から足利義教へ)や称光天皇の死去(7月20日)などの社会不安が高まる中、近江坂本や大津の馬借が徳政を求めた[1][2]。その一揆が畿内一帯に波及し、各地で借金苦に耐えかねた一揆勢が酒屋、土倉、寺院(祠堂銭)を襲い、私徳政を行った。私徳政の根拠としては「代替わりの徳政」であるとされている。
室町幕府は制圧に乗り出し、侍所所司・赤松満祐も出兵したが、一揆の勢いは衰えず、9月中には京都市中に乱入し、11月に入ると奈良のほか河内国や播磨国など各地にも波及した。
尋尊の『大乗院日記目録』には、「正長元年九月 日、一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑物等恣に之を取り、借銭等悉く之を破る。官領、之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。」と記載されている。 正長元年8月、近江国で「山上山下一国平均御徳政」が起こった[3]。この近江の徳政に触発され、翌9月18日、京の醍醐でも「地下人」が徳政を号して発起した[4]。この時、醍醐寺の三宝院満済は細川持元に寺の警固を要請、管領畠山満家へも報告を行った。さらに侍所赤松満祐率いる200騎あまりの軍勢が、足利義教の意を得て山科に陣を取った[5]。これら一連の幕府の対応によって、一揆は一時的に静まった[6]。 しかし、11月2日には近江国から馬借が下京に攻め入り債務を破棄した[7]。その他、馬借が中心となった一揆は、京都以外でも大和・河内・播磨国などでも起き[6]、さらに徳政一揆は伊賀・伊勢・若狭国でも起こった[8]。 なお、当時麹製造の独占を巡って、北野社の支援を受けた麹座と延暦寺の支援を受けた馬借・酒屋が争っており、馬借の動きは当初は北野社を襲って麹座による麹製造の独占を止めさせることにあったが、幕府軍によって北野社への侵入は阻止されて、派生した一揆は本来の目的から逸脱・暴走して馬借と同じ延暦寺側である筈の酒屋や土倉を襲う想定外の事態になったとする清水克行の説がある(これによって一度はうやむやになった麹の問題は文安の麹騒動として再び噴出する)[9]。 大和国でも、山城の徳政一揆が奈良へ乱入するとの風聞が立ち、これを受け興福寺と東大寺は協議している[10]。11月2日には徳政一揆勢が奈良に侵入し、興福寺の学侶や六方衆
経過