正邦宏
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まさくに ひろし
正邦 宏
1923年の写真。
本名金子 政國 (かねこ まさくに)
生年月日 (1896-04-25) 1896年4月25日
没年月日 (1928-06-01) 1928年6月1日(32歳没)
出生地 日本 東京市神田区(現在の東京都千代田区神田
死没地 日本 関東州大連(現在の中華人民共和国遼寧省大連市
身長164.8cm
職業俳優
ジャンル新劇劇映画時代劇現代劇サイレント映画
活動期間1913年 - 1926年
配偶者金子英子
主な作品
『狂へる劔技』
金色夜叉
『島に咲く花』
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正邦 宏(まさくに ひろし、1896年4月25日 - 1928年6月1日)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。本名金子 政國(かねこ まさくに)[2][8]伊庭孝門下の新劇の舞台俳優から、時代劇も含めた映画俳優に転向、「和製ロイド」(ハロルド・ロイド)として人気を博したが、早世した[1][2][3][8]
目次

1 人物・来歴

1.1 新劇の時代

1.2 和製ロイド


2 フィルモグラフィ

2.1 国際活映角筈撮影所

2.2 松竹蒲田撮影所

2.3 帝国キネマ演芸

2.4 松竹下加茂撮影所


3 脚注

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

人物・来歴
新劇の時代

1896年明治29年)4月25日東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)に生まれる[1][4]。『現代俳優名鑑』(揚幕社)には、京橋区新湊町(現在の中央区)と記されている[2]

日本統治時代の台湾台湾総督府(現在の中華民国台北市)で高等小学校を卒業し、東京に戻り、旧制・荏原中学校(現在の日体荏原高等学校)に進学する[1][2]。同校卒業後、慶應義塾大学理財科(現在の同大学経済学部)に進学するも大学予科の課程で中途退学する[1][2][3][4]

上山草人の「近代劇協会」から独立した伊庭孝が1913年(大正2年)10月に設立した「新劇社」に参加、東京・有楽座での第1回公演『出発前半時間』(作フランク・ヴェーデキント)、『チョコレート兵隊』(作ジョージ・バーナード・ショー)に出演し、満17歳で新劇の初舞台を踏む[1][2][3][4]。同劇団にはほかに武田正憲勝見庸太郎横山運平らがいたが、翌1914年(大正3年)1月、第2回公演を最後に解散した[1]。正邦は「近代劇協会」に移籍し、同年4月、上山草人・山川浦路らによる有楽座での第8回公演、『ノラ』(『人形の家』、作ヘンリック・イプセン)および『ハンネレの昇天(英語版)』(作ゲアハルト・ハウプトマン)で「舞台指揮」(製作者)として参加している[1]。1915年(大正4年)4月には、上山・伊庭と澤田正二郎による「新劇合同」の赤坂・演伎座での『役者の妻(英語版)』(原作ジョージ・ムーア、脚色伊庭孝)に出演している[1]。その後、伊庭が新たに設立した「歌舞劇協会」に参加するが、1917年(大正6年)には同劇団は解散した[1][4]
和製ロイド

1920年(大正9年)4月、国際活映南豊島郡淀橋町大字角筈十二社(現在の新宿区西新宿)に角筈撮影所(現存せず)を新設するにあたり、同撮影所長に就任した桝本清の紹介によって入社した[1][4][9]。同年8月7日に公開された林千歳と高瀬實(のちの高勢實乘)が主演するサイレント映画『湖畔の乙女』(監督不明)に出演して、満24歳で映画界にデビューした[1][4][5][6]。1921年(大正10年)9月、松竹蒲田撮影所に移籍した[1][4][5][6]


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