凡例正親町三条 公貫
時代鎌倉時代前期 - 後期
生誕暦仁元年(1238年)
死没正和4年2月29日(1315年4月3日)
改名公貫→空円(法名)
官位正二位、権大納言
主君四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇
氏族正親町三条家
父母父:正親町三条実蔭、母:道寛
正親町三条 公貫(おおぎまちさんじょう きんつら、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:正親町三條 公󠄁貫)は、鎌倉時代前期から後期にかけての公卿。参議・正親町三条実蔭の嫡男。父・実蔭は参議在任中に43才で亡くなったが、公貫は政治的能力に長けた上長命であったために正二位・権大納言に至った。 暦仁元年(1238年)、誕生。しかし、ほどなく父が参議のまま薨去したため左大臣・洞院実雄の猶子となった。 延応元年(1239年)従五位下に叙爵。仁治4年(1243年)に従五位上に叙せられ、寛元4年12月(1247年1月)侍従に任官。宝治2年(1248年)正五位下に叙せられた。 建長4年(1252年)近江権介、讃岐国が実雄の知行国となると讃岐守を兼任し、左近衛少将に任ぜられる。建長5年(1253年)には従四位下、建長7年(1255年)に従四位上に昇叙され、康元元年(1256年)右近衛中将に転じた。正嘉2年(1258年)に正四位下に叙せられた後、昇進が滞るが、文永11年(1274年)に蔵人頭に補任され、翌建治元年(1275年)参議に任ぜられて公卿に列した。 建治2年(1276年)になると、従三位・土佐権守となる。建治3年(1277年)には正三位に昇叙。弘安4年(1281年)讃岐権守を兼ね、弘安7年(1284年)に従二位に叙せられる。弘安9年(1286年)には父の極官である参議を超過して権中納言に任ぜられた。しかし、弘安10年(1287年)に権中納言を辞退して翌年に正二位に叙せられた。 正応5年(1292年)に日野資宣が薨去するとその後任として民部卿に任ぜられた。永仁3年(1295年)これを辞退して再び散位となるが、正安元年12月(1300年1月)に後伏見天皇元服後宴の上寿役を務めて権大納言に昇進した。正安2年(1301年)権大納言を辞任して、嘉元元年(1303年)9月に出家。法名は空圓という。 正和4年(1313年)2月29日に78歳という高齢で薨去した。正親町三条家を継いだ三男・実躬の日記『実躬卿記』には父である公貫のこともよく記されている。 ※以下、『公卿補任』の記載に従う。
経歴
官歴
延応元年(1239年)4月5日:従五位下に叙す。
仁治4年(1243年)2月9日:従五位上に叙す(臨時)。
寛元4年12月18日(1247年1月26日):侍従に任ず。
宝治2年(1248年)4月8日:正五位下に叙す(安嘉門院当年御給)。
建長4年(1252年)
正月13日:近江権介を兼ぬ。
6月22日:讃岐守を兼ぬ(権大納言實雄卿給)。
8月18日:左近衛少将に任ず。
建長5年(1253年)
正月5日:従四位下に叙す。
正月13日:左近衛少将に還任す。
建長6年(1254年)11月8日:右近衛少将に遷る。
建長7年(1255年)正月5日:従四位上に叙す(臨時)。
康元元年(1256年)12月13日:右近衛中将に転ず。
正嘉2年(1258年)正月5日:正四位下に叙す。
文永11年(1274年)4月5日:蔵人頭に補す。
建治元年(1275年)10月8日:参議に任ず。
時期不明:土佐権守を兼ぬ。
建治2年(1276年)正月5日:従三位に叙す(臨時)。