正祖
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正祖 李?
李朝
第22代国王

王朝李朝
在位期間1776年4月17日 - 1800年6月28日
姓・諱李?(イ・サン、??)
字亨運(ヒョンウン、??)
号弘斎(ホンジェ、??)
諡号敬天明道洪徳顕謨文成武烈聖仁荘孝大王
恭宣王(清国による)[1][2]
廟号正祖(チョンジョ)
生年乾隆17年9月22日
1752年10月28日
没年嘉慶5年6月28日
1800年6月28日
荘献世子(実父)、孝章世子(養父)
恵慶宮洪氏(実母)、孝純王后趙氏(養母)
王后・王配孝懿王后金氏
妃嬪宜嬪成氏
綏嬪朴氏
元嬪洪氏
和嬪尹氏
子女下記参照
陵墓健陵
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正祖
各種表記
ハングル:?? / ?? / ?? / ??
漢字:正祖 / 李? / 亨運 / 弘齋
発音:チョンジョ / イ・サン / ヒョンウン / ホンジェ
日本語読み:せいそ / り・さん / こううん / こうさい
ローマ字:Jeongjo / I San / Hyeong'un / Hongjae
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正祖(チョンジョ、せいそ、1752年10月28日 - 1800年6月28日[3])は、李氏朝鮮の第22代国王。は?(サン)。祖父は英祖、養父は孝章世子、妃は金時黙の娘孝懿王后。子女に純祖らがある。大韓帝国期に正祖宣皇帝の称号を送られた。
生涯
生誕と即位

英祖の次男荘献世子(思悼世子)と恵慶宮洪氏の間の次男として生まれ、1759年、8歳で王世孫に冊立される。1762年辛壬士禍(辛壬の獄)を批判した父荘献世子が老論派の陰謀で悲劇的に死んだ後、英祖の長男孝章世子の養子となる。その理由は老論派の諸臣が 「罪人の息子は王になれない」と主張したからである。1775年より代理聴政をはじめ、翌年英祖が薨去した後、25歳で即位した。正祖は即位式に集まった人々に「余は思悼世子の息子である」と宣言した。
治世

即位とともにそれまで心に秘めていた父の復讐を企てる一方で、能力ある人物を積極的に登用し、老論派を牽制できるだけの親衛勢力を集めることに心を砕いた。特に王世孫時代より自らの警護にあたってきた洪国栄に全幅の信頼を置き、宮城の護衛にあたらせたが、洪国栄は正祖の信頼を背に、いわゆる勢道政治を行い、行き過ぎた権力独占に動揺した正祖は洪国栄に退任を勧告することとなった。洪国栄は自身の勢力を維持するために策略した孝懿王后毒殺計画(未遂)が発覚し、故郷へ追放となった。

父の死を招いた仇であり、与党でもあった老論派を極度に嫌悪した正祖は、重鎮であった洪麟漢(朝鮮語版)を死罪に処し、封建的特権を弱体化し中央政府の地方統制力を高め、王権を強化するための政治・経済改革に着手した。英祖が生涯の課題とし、基本政策とした蕩平策を継承し、党争を避けるよう努力し、外戚勢力をはじめとする既得権勢力、特に老論勢力を排除、弱体化し、親政体制の構築に努力した。

また英祖の時より始まった文物制度を整備拡充し、自らは超越的な統治者として君臨しつつ、師として臣下を養成、再教育した。1776年4月には首都漢城に文芸、学問の振興のための奎章閣を設置した。ここには、中国、朝鮮の典籍が収蔵され、正祖を支持する文官の精鋭を選んで親衛勢力を形成し、「右文之治」と「作成之化」を奎章閣の二大名分として掲げて文化政治を標榜するとともに、朋党の肥大を抑制し、人君を補佐できる強力な政治機構として育成した。更に、特に優秀な人材を選び抄啓文臣と称して毎月2回ずつ試験を行って賞罰を直接下す「抄啓文臣制」を実施し、疎外されていた嶺南系人士も科挙を受けさせるようにした。

先代王であり祖父である英祖の頃から、思弁的な朱子学から現実的な実学重視の風潮が高まり、「実学派」と呼ばれる人々が登用されるようになった。この頃の実学派は大きく2つに分かれ、一派は17世紀の柳馨遠に始まる潮流で土地制度、奴婢制度、軍事制度を深く考察し、農業を重んじていた。もう一つの流れは「北学派」と呼ばれ、北方の清朝に学ぶというものであった。この流れの中で、従来は官吏になれない庶子も官吏として認められるという新しい動きもあった。

このような治世の雰囲気は中人両班と常民の間の中間層)以下の平民まで影響を与え、正祖時代は両班はもちろんのこと、中人、庶子とその子孫(庶?)、平民層に至るまで文化に関心を持ち、文化が大きく花開いた時代となり、正祖はハングルを創始した世宗と並ぶ好学の王としての誉れが高い。

正祖は暗行御史をしばしば派遣して地方の問題点の直接把握、解決に努め、これをもって地方士族の郷村支配力を抑制し、百姓へ対する政府統治力の強化を図った。また王室直属の親衛隊である壮勇営を新設し、党争で堕落してしまった「五軍営」の各軍営の独立性を弱体化させて兵権を掌握することで、王の最高統帥権を実質的に行使することができるようにした。壮勇営の設置は、軍隊を掌握していた老論を牽制する政策でもあった。

しかしこのような正祖の政策に賛成した南人少論派、一部老論派臣下たちが時派(朝鮮語版)を、他方の最後まで党論を固守した大多数の老論派臣下たちが僻派を形成し、結局党争は時派と僻派の対決という新しい形で展開していくこととなった。政治は当然時派中心に運営されたが、危機感を抱いた僻派は更に一致団結して政局主導権を奪う機会を摸索した。

正祖は父を偲び、1789年には墓所を楊州から水原の顕隆園(隆陵)へ移し、定期的に参拝した。また墓所の周囲に華城を建設し、城内に行宮を設けた。水原への遷都が計画され、幾多の商工業者を誘致して自らの政治的理想を実現する象徴的都市建設を図り、また人民らに直接会ってその意見を政策に反映したとされる。

1791年には辛亥通共(朝鮮語版)を実施して商業活動の自由を大きく拡大し、守令等による過酷な刑罰を制限した。

また当時、中国でのマテオ・リッチイエズス会の活動によって、朝鮮にも流入しつつあった天主教(カトリック)に対しては、正学、すなわち宋明理学だけが西学(カトリックを指す)の蔓延を防ぐ方法であるという原則のもと、柔軟に対処した。しかし1791年キリスト教徒である全羅南道の両班、尹持忠(ユン・ジチュン)は母の死去後、その位牌を燃やしてカトリック式の葬儀を行ったが、この事件で世論が徐々に悪化すると事態の深刻性を悟った正祖は遂に尹持忠を逮捕したのち処刑した。また4年後の1795年には清朝のカトリック神父である周文謨が朝鮮に密入国して宣教活動を行ったことが発覚する事件が発生した。この2つの事件の結果、僻派の立場が強化され、時派の立場は弱まった。正祖の死後、次男の純祖が即位し、政治的に正祖と対立していた貞純王后(英祖妃)が垂簾聴政を行うに至り、朝鮮の天主教教会は、信徒の大半であった南人を排除した辛酉教獄(朝鮮語版)(1801年)や、五家作統法(朝鮮語版)(相互監視制度)の実施などによって組織的に弾圧され、受難の道を歩むこととなった。

正祖の治世下の1797年英国の軍艦プロビデンス号釜山東?龍塘浦へ漂着し、釜山と交渉をした。

祖父・英祖譲りの明晰な頭脳を持っていた他、武術にも非常に優れ、刺客との立ち回りも自ら幾度となく演じたと伝わる。
改革の頓挫と死去

正祖は、父が党争の犠牲になったこともあり、老論派の攻勢という難しい逆境を乗り切って王権を強化するためにさまざまな改革に着手したが、1800年、病が悪化して49歳で予期せぬ死に倒れ、彼が推進してきた改革の大部分は無に帰した。彼の死後、朝鮮では外戚家門の安東金氏が権力を握る勢道政治が展開していく。
死後

陵は荘献世子の隆陵の脇に建てられた、健陵である。死後、当初は正宗(チョンジョン、せいそう)の廟号を贈られたが、大韓帝国時代の1899年に父に荘祖の廟号が追尊された後、正宗の廟号も正祖に変えられ、正祖宣皇帝の諡号を追尊された。

から贈られた諡号は、「恭宣王」である[2]。諡号に「恭遜な恭」の文字を使用しており、朝鮮国王は従順であって欲しいという清の希望を読み取れるが、この諡号は、治世中の公式記録から徹底して取り除かれており、『朝鮮王朝実録』、朝鮮国王の行状、『陵誌文』といったほとんど全ての公式記録から取り除かれ、外交文書以外にはほとんど使用されなかった。『朝鮮王朝実録』は、清から諡号を授かった事実を記録するのみで贈られた諡号を記録していない。その理由は、「夷狄」とみなした清からの諡号を恥辱に感じていたからであり、表向きは清に対して朝貢冊封事大をおこない、恭順の姿勢を装うが、清に対する反発が拭い難く根付いていた[2]
死因に関する研究


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