正戦論
[Wikipedia|▼Menu]
マイケル・ウォルツァー(2002年11月18日撮影)

正戦論(せいせんろん、英語: Just War もしくは Just War Theory)とは、ローマ哲学カトリックに起源をもつ、軍事に関する倫理上の原則・理論。西ヨーロッパにおいては「正しい戦争」「正しくない戦争」を区別することで、戦争の惨禍を制限する事を目指して理論構築がなされた。正しい戦争論とも。

聖戦とは概念が重なる場面もあるが、多くは別枠で論じられる。

本項は西ヨーロッパ(西方教会圏)における正戦論について説明する。
西欧における正戦理論の展開
発祥と思想家の系譜
古代ギリシャにおける正戦論

[1]正戦という概念自体は古代ギリシャ世界にも通用していた。例えばヘラクレイトスによれば戦争肯定は次のようになされるものであり「戦争はすべてのものの父であり、王である。あるものを神として、他のものを人として表した。あるものを奴隷に、他のものを自由人にした」と、そしてアリストテレスはこの伝承に則って、古代ギリシャの正戦論を奴隷の問題に結び付けた。すなわち「戦争の術はその本性からして、ある意味において、獲得の術である。実際、狩の術もその一部である。これが獣と、従うために生まれ、それを拒む人に対して行われる場合には、そのような戦争は本性上正しい」(Politica I, 8, 1256b)。ここで言われている「従うために生まれた人」はギリシャ文明を享受していない未開人(バルバロイ)であり、「正戦」のためにアリストテレスは「自己防衛」「同盟者の保護」「未開人の奴隷化」の3条件を挙げた。そして同時に重要な警告を加え、好戦的な姿勢を育む国は戦争では勝利を収めるが、平和を組織化するすべを知らないので結局滅びてゆく(Politica VII, 1333b-1334a)とした。宗教改革以降、アリストテレスの正戦論はスペインによる中南米征服をはじめ、あらゆる植民地政策を正当化するために大いに利用されたが、中世西欧の正戦論には影響を与えなかった。キケロに対するアリストテレスの影響を強調する学説があるが、アリストテレスが正戦のために与えた3条件のうちキケロは最初の2つを挙げるが、ギリシャ的と思われる3番目については黙殺している。
西ヨーロッパにおける正戦論アウグスティヌスステンドグラス、作:L. C. ティファニーグローティウス1631年に描かれた絵画)

西ヨーロッパにおける正戦論は、際限のない中世の戦争・暴力という状況から、戦ってもよい戦争と戦ってはいけない戦争を区別し、戦争・暴力の、行使・発生を制限する事を目指した知的営為から生まれたものであり、10世紀後半以降にこのような議論が活発となった[注釈 1][2]

その際、神の命じた戦争の遂行を義務とする旧約聖戦観念と、ストア派ローマ法に由来する穏健で必要最小限度の暴力行使という原則を結びつけたアウグスティヌスの説が大きな影響力をもった。ただしアウグスティヌスは正戦論の創始者として数えられる事は多いものの、その正戦論は未完成なものだったとされる[3]14世紀までには西欧における正戦論について、一定のコンセンサスが成立した[2]

正戦論の系譜にある思想家の名としては、アウグスティヌスの他、トマス・アクィナスフーゴー・グローティウスなどが挙げられ、中でもグローティウスは重要な思想家と看做されている。マイケル・ウォルツァーは現代における正戦論の第一人者と目されている[3]。正戦論についての権威ある歴史学者ジェームズ・ターナー・ジョンソン(James Turner Johnson)によれば、正戦論の起源は古代ギリシャ・ローマにも求められ、アリストテレスキケロも正戦論の系譜に加えられるとされる[3]
法(jus)

的には、宗教的要素(キリスト教神学教会法)と、世俗的要素(復活させたローマ法騎士の戦闘における慣習ルール)が絡み合って成立。戦っても良い戦争の条件は「戦争のための法(jus ad bellum)」で、交戦時の容認される戦い方は「戦争における法(jus in bello)」で定められた[4]

「戦争のための法(jus ad bellum)」には、戦争が正しい戦争となるための条件が5つ挙げられている[4]
正しい理由(攻撃に対する防衛・攻撃者に対する処罰・攻撃者によって不正に奪われた財産の回復)の存在

正統な政治的権威による戦争の発動

正統な意図や目的の存在

最後の手段としての軍事力の行使

達成すべき目的や除去すべき悪との釣り合い

教皇に戦争発動権があると主張する者達は、十字軍聖戦とみなし、「正しい理由」も3つとも満たした正戦であるとしていた。西欧キリスト教世界において、聖戦論は独自に発展したのではなく、正戦論の一環として議論されていた[4]

「戦争における法(jus in bello)」には、戦争が正しく行われるための条件を2つ定めている[4]
戦闘員と非戦闘員の区別(差別原則)

戦争手段と目標との釣り合い(釣り合い原則=不必要な暴力の禁止)

しかしこの"jus in bello"の遵守は十字軍兵士には求められなかった。西欧の「正戦論」はキリスト教世界内部における戦争の限界を定めたものであり、異教徒や異端者との戦争において遵守する義務が無く、特に「戦争における法」が無視される残虐な戦いが容認された[4]

しかし時を経て15世紀に入ると、北方十字軍として異教徒(時には非ローマカトリックの正教徒を対象に含んだ[5])に対する侵攻・殺戮・略奪を行っていたドイツ騎士修道会を、ポーランドのクラクフ大学学長パヴェウ・ヴウォトコヴィツ[注釈 2]コンスタンツ公会議において指弾し、教皇主義の立場から異教徒の権利を擁護した(コンスタンツ公会議1416年[6]。その後、16世紀にはバルトロメ・デ・ラス・カサスが異教徒であるインディオへのスペインによる虐殺・圧政を非難した事例(バリャドリッド論争1550年?)も出て来た。
正戦と聖戦マクデブルクの戦いを描いた絵画。三十年戦争で行われた残虐を示す事例の一つ。

正戦論はできるだけ戦争を限定することにより、戦争の害悪を少なくしようとする理論であると捉えられる。一方、聖戦は非限定戦争になる蓋然性が高くなる[7]

ジョンソンによれば、聖戦(宗教戦争)には以下4つの特徴がある[7]
神による直接的、あるいは特別な人間や制度を通した間接的な命令で行われる

宗教の、防衛・拡大・社会秩序の確立を目的とする

宗教共同体と、それに属さない人々との間で行われる

戦うことが義務となっている

1番と2番は正戦論における「戦争発動の正当な権利と正当な理由」に相当するが、3番と4番は聖戦独自のものであり、これにより人員・資源の動因が容易になりやすく、聖戦は非限定戦争になりやすい。また聖戦は善と悪の戦いとなり、支配者がこのような絶対的価値にコミットしているために、相手との妥協が困難になり、交渉による戦争終結が難しくなって無制限な殲滅戦となりやすい[7]

16世紀宗教改革以降、西欧でも非限定戦争になる蓋然性が高い宗教戦争=聖戦が勃発していく。「ドイツが人口のほぼ3分の1を失った」「人類の歴史上最も残酷で破壊的な戦争の一つ」とされる[8]三十年戦争を経験した西欧では、その荒廃への反省から聖戦を否定し、主権国家体制から構成される西欧国際政治の枠組みが形成されるに至った[9]
限定戦争の展開

17世紀後半以降、限定戦争が行われるようになる。しかし「戦争における法」の「差別原則」が考慮されずにこの限定戦争は展開されたため、18世紀の戦争においては、戦闘地域以外の住民は戦争から大した被害を受けなかった一方で、戦闘地域の住民は大きな被害を受けた。第一次世界大戦が勃発するまでの戦争の特徴はこのようなものであった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:34 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef