正平地震
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西暦換算に関する注意

1582年以前に発生した日本の地震の西暦換算については、ユリウス暦であるか、グレゴリオ暦であるかを明記してください。Wikipediaの表記ガイドでは原則としてユリウス暦で表記することになっていますが、『理科年表』など多くの文献ではグレゴリオ暦表記となっており、混乱を避けるために注意が必要です。

詳細は日本の歴史地震の西暦換算を参照してください。

正平地震

康暦碑。康暦2年(1380年)建立。正平地震による津浪犠牲者の供養碑とされる。徳島県美波町東由岐。
本震
発生日正平16年(康安元年)6月24日・ユリウス暦1361年7月26日
震央.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度00分 東経135度00分 / 北緯33.0度 東経135.0度 / 33.0; 135.0座標: 北緯33度00分 東経135度00分 / 北緯33.0度 東経135.0度 / 33.0; 135.0[1][注 1][注 2]
規模   M8.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄4?8.5[1][注 2]
津波あり
被害
被害地域畿内・熊野・紀伊水道

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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正平地震(しょうへいじしん)は、室町時代前期(南北朝時代)の1361年に発生した大地震南海トラフ沿いの巨大地震と推定されている[2]

この地震名の「正平」は南朝元号から取ったものであり、北朝の元号である康安から取って康安地震(こうあんじしん)とも呼称され、多くの史料が北朝の年号で書かれているため現在の日本史学の慣習に従って「康安地震」と称した方が良いとする意見がある[3][4]

記録は南海道沖の地震と思われるものであるが、発掘調査や史料の解釈などにより東海道沖の地震も連動した可能性が提唱されている。
地震の記録

信頼度の高い史料とされる当時の日記である『後愚昧記』、『忠光卿記』、『後深心院関白記』(『愚管記』)、および『斑鳩嘉元記』[5]、また信頼度は低いとされる文芸作品や後世の編纂物であるが『和漢合運』、『南方紀伝』、『太平記』、および『阿波志[6]などに地震被害の記録がある。

正平16年(康安元年)6月24日刻(ユリウス暦[J]1361年7月26日4時頃、グレゴリオ暦[G]1361年8月3日)、畿内熊野などで被害記録が残るような大地震が発生した。

『後愚昧記』などには摂津四天王寺の金堂、奈良唐招提寺薬師寺山城東寺など堂塔が破損、倒壊したと記録される。『斑鳩嘉元記』によれば、法隆寺で金堂の仏壇が崩れ、東大門の築地の破損、東院伝法堂の壁が落下し、塔の九輪の上部の火炎(水煙)が折損した。なお、この塔の九輪の上で火災が生じたとする解釈があるが[7][8]、それは『斑鳩嘉元記』の「當寺ニハ御塔九輪之上火炎、一折懸ニテ下モヘハヲチス、(折れ懸けにて下へは落ちず)」を、「當寺ニハ御塔九輪之上火災、一折燃テ下モヘハヲチス、」と誤読した翻刻文を掲載した『大日本地震史料』[9]によるものと思われる[10]

また『斑鳩嘉元記』には、薬師寺で金堂二階の傾損、2基の塔の内、1基の塔の九輪の落下、唐招提寺でも九輪の大破、回廊の転倒、諸堂の破損したとある。さらに紀伊では湯の峯温泉の湧出が停止し、熊野山の山路や山河の破損が多く、『愚管記』には熊野神社の社頭や仮殿が尽く破損したとある[5][11]

『太平記』巻第三十六、地震と夏雪の記録。軍記物語ゆえに文学的、誇張的表現、あるいは創作による不正確な記述も見られるが、阿波雪湊(由岐)の津波の存在は事実であろうとされる[5]

大地震並夏雪事

同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗男女、牛馬鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野径の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者数を不知。

七月〔ママ〕二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。

又八月〔ママ〕二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体にぞ見へたりける。二の竜去る時、又大地震く動て、金堂微塵に砕にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何様聖徳太子御安置の仏舎利、此堂に御坐ば、竜王是を取奉らんとするを、仏法護持の四天王、惜ませ給けるかと覚へたり。洛中辺土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。旧記の載る所、開闢以来斯る不思議なければ、此上に又何様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。

鳴戸では三四日前に海が干上がり、地震前後に数時間に亘って地鳴りが響き渡り、地震による地殻変動と思われる現象で再び没して海に戻った様子が比喩的に表現されている。また6月22日の地震(前震?)の日は盛夏にもかかわらず冬至前後の様な寒さでが降りだしたことが記録されている。この夏雪の記事は当時の公卿の日記には見られないが、『高野春秋』に「辛丑六月廿二日、俄大雪降積」とあり高野山では降雪があった可能性があるとされる[9][12]

三河の記録としては渥美郡堀切の『常光寺年代記』に「自六月一日より廿一日迄大地震地破」とある[13]


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