正名_(思想)
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藤田幽谷。江戸時代に『正名論』を著した。→#江戸時代

正名(せいめい、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: zhengming)とは、中国思想日本思想用語で、名を正す(なをただす)という行為のこと。時代や文脈によって様々な意味をもつ。正名論、正名思想ともいう。類義語は名実論。
概要

「正名」という語句は、『論語』の中の孔子の教えに由来する。具体的には、『論語』子路篇における、子路と孔子の会話に由来する。【原文】
子路曰:「衞君待子而爲政,子將奚先?」子曰:「必也正名乎!」子路曰:「有是哉?子之迂也!奚其正?」子曰:「野哉,由也!君子於其所不知,蓋闕如也。名不正,則言不順;言不順,則事不成;事不成,則禮樂不興;禮樂不興,則刑罰不中;刑罰不中,則民無所措手足。故君子名之必可言也,言之必可行也。君子於其言,無所苟而已矣。」[1]

【書き下し】
子路曰く、衛君、子を待って政を為す。子将に奚をか先にせんとす。子曰く、必ずや名を正さんか。子路曰く、是れ有るかな子の迂なる、奚ぞ其れ正さん。子曰く、野なるかな由や。君子は其の知らざる所に於て、蓋し欠如するなり。名正しからざれば、則ち言順ならず。言順ならざれば、則ち事成らず。事成らざれば、則ち礼楽興らず。礼楽興らざれば、則ち刑罰中らず。刑罰中らざれば、則ち民手足を措く所無し。故に君子之を名づくれば必ず言ふ可くす。之を言へば必ず行ふ可くす。君子は其言に於て、苟もする所無きのみ。[2]

【現代語訳(要約)】
子路は孔子に向かって次のように質問した。「もしも孔子が衛国君主に政治顧問として登用されたら、まず何をするか」と。その質問に対して孔子は「名を正す」(正名)と答えた。「それはどういうことか」と子路が尋ねると、孔子は次のように答えた。「もしも名が正しくなければ、言論の筋が通らなくなり、政事が達成されなくなり、が振興しなくなり、刑罰が妥当でなくなり、民は不安に駆られて困窮してしまう」と。[注釈 1]

以上の一節から、「正名」という行為が極めて重要な行為、政治において最優先にすべき行為だということが分かる。しかし、具体的に何をどうする行為が「正名」なのかは分からない[5]

そのため、後世の儒学者たちは「正名」に様々な解釈を与えてきた。大まかに分ければ、鄭玄に代表される言語論の文脈で「言葉を正す」とする解釈と、朱熹に代表される政治論の文脈で「名分を正す」とする解釈がある[6][7]。あるいはそのような儒学者たちに先立って、戦国時代諸子百家も「正名」を論じていた。あるいは近現代の学者が新たな解釈を与えることもある[6]

儒教が「名教」と呼ばれるのも正名思想に由来する[8](「名教」呼称が一般化するのは六朝以降[9])。
言葉を正す

言語論の文脈で「正名」と言うときの「名」は、「名前」「名詞」に限らず、「名辞」「言葉」全般をさす[5]。つまり孔子がいう所の「正名」は「言葉の混乱を正す」行為なのだと解釈される。ただしひとくちに「言葉の混乱を正す」と言っても、具体的に何をするかは、以下のように様々なバリエーションがある。

後漢鄭玄は、子路篇の注釈(『論語義疏』所引)や、『儀礼』聘礼篇、『周礼』外吏篇・大行人篇の注釈で、「名」とはすなわち「字」(文字漢字)の同義語である(経書が書かれた時代の古称である)と解釈した[10]。つまり、鄭玄は「正名」を「字を正す」ことだと解釈した。

鄭玄の「字を正す」説は、とりわけ清代考証学者たちに支持された[11][12]。考証学者たちは、「字を正す」説を敷衍して「字の形音義を正す」と解釈した上で[13]、文字学(中国語版)・音韻学・訓詁学の三学(小学)を推進した。つまり、考証学者が小学を重んじた背景の一つとして正名思想があった[14]。『隋書経籍志も「正名」を小学と結びつけている[15]

鄭玄の「字を正す」説に近い解釈として、『論語集解』所引の馬融の解釈(「正百事之名」)がある[11][5]
名物学「名物学」も参照

漢代以後、訓詁学から派生して「名物学」と呼ばれる学問分野が形成される[16]。この名物学の営為が「正名」である、とされることもある[17][18][19][20]

名物学では「字を正す」ことではなく、「名」と「実」の二者を合致(一致)させることが「正名」とみなされる[21]。ここでいう「実」は、「形音義」の「義」または「物」とおおよそ同義である。つまり「実」は「名前が指す物」「単語の意味」を意味する(定訳は無い)[注釈 2]

名物学の書物の筆頭として、前漢頃の『爾雅』、および後漢末の『釈名』がある[16]。『釈名』が後漢末という乱世に書かれたのは、正名思想に基づいて乱世を正そうとしたためである、とする推測もある[23]

江戸時代の松岡恕庵は、自身の名物学的な本草学を「正名」「格物」と称していた[21]

明治時代に「日本の植物学の父」として和名整理を推進した牧野富太郎は、伝統的本草学・名物学にも通じていたことから、背後に正名思想があったと言われる[20]

なお、江戸時代の名物学においては、「名を正す」ではなく「正しき名」という意味で「正名」を術語的に用いる場合もあった[24][17]。その場合の「正名」は「俗名」の対義語であり、意味は本項の「正名」よりも現代の分類学用語の「正名」または「学名」に近い。
その他

礼記』祭法篇では、上古聖人黄帝が万物に名前を与えた、という神話的な事績を「正名」と称している[25][10]

ある分野の書物において、その分野の用語を定義・整理する行為を「正名」という場合もある。つまり例えば、馬建忠馬氏文通』正名篇や羅常培の著作といった中国語学の書物では、中国語学の用語を定義・整理することを「正名」と称している[26][27][28]


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