正司照枝
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、漫才トリオについて説明しています。アイドルユニットについては「NEOかしまし娘」をご覧ください。

かしまし娘
左から照枝、歌江、花江(1956年)
メンバー正司歌江
正司照枝
正司花江
結成年1956年
旧トリオ名カシマシ娘
芸種音曲漫才
受賞歴


1966年度上方漫才大賞

2005年度上方お笑い大賞審査員特別賞

2018年度上方演芸の殿堂

テンプレートを表示

かしまし娘(かしましむすめ)は、元松竹芸能所属の姉妹音曲漫才トリオ。
芸風

ギター三味線を弾き、流行歌や浪曲を取り入れた音曲漫才。「?ウチら陽気なかしまし娘 誰が言ったか知らないが 女三人寄ったら 姦しいとは愉快だね。ベリーグッド ベリーグッド お笑い お喋り ミュージック 明るく歌って ナイトアンドデイ ピーチクパーチク かしましい」でお馴染みのテーマソングは、音曲漫才師都上英二の作曲、脚本家の大村淳一の作詞で、レコード化もされた。 角倉節朗(1952年)

道頓堀/角座がホームグラウンドで、松竹芸能の看板芸人だった。グループの名付け親は当時北野劇場の支配人だった角倉節朗(後の関西テレビ編成局長)。最初はカタカナ表記のカシマシ娘だったが、北野劇場が間違えて看板をひらがなで書いてしまい、この方が語感が良いとそのままになった。

漫才トリオとしてのかしまし娘は1981年を最後に休止し、現在は各々ピン・タレント・女優として活動しているが、不定期に喜劇の舞台公演を行ったり、テレビ番組やCMなどで3人揃って出演することがあり、ユニットとしては今なお健在である。

2018年には第21回上方演芸の殿堂入りが決まった[1]
メンバー

元は四人姉妹。花江の2歳年下の四女・利子は生まれながら病気がちで足が不自由であったためにメンバー入りせず、芸人にもならなかった。父親が旅回り一座座長だったため、出生地は全て異なる。また母親は四女・利子が生まれてから産後の肥立ちが悪く、肺と心臓の結核で入退院を繰り返し、1945年2月14日に亡くなった。

正司歌江(しょうじ うたえ、 (1929-08-13) 1929年8月13日(93歳))、(三味線)長女、北海道歌志内市生まれ。本名は平井歌江。かしまし娘休止後は他のプロダクションに所属していたが、2007年に当時の所属事務所アクターズプロモーションが倒産し、同年6月に松竹社長との会談で21年ぶりに松竹芸能復帰。2007年に客演したWAHAHA本舗に、2009年5月1日より正式入団。息子は『欽ちゃんの仮装大賞』などを手がけるプロデューサーの平井秀和。

正司照枝(しょうじ てるえ、 (1933-03-15) 1933年3月15日(89歳))、(リズムギター)次女、北海道小樽市生まれ。本名は正司照江。さち子プロ→石井光三オフィス→SHUプロモーション所属。かしまし娘活動休止となった1981年、それまでの正司照江から正司照恵へ改名し、松竹新喜劇に参加。1987年に退団・芸名も現在のものとする。テレビ番組に出た衣装は二度と着ないようにしている。悪声をネタにされ、ソロで歌わせてもらえない。息子の正司宏行は石井光三オフィス取締役→SHUプロモーション代表取締役社長で、磯野貴理子の元マネージャー・元夫。またエリック・クラプトンのファンであり来日時には必ずコンサートに行く。

正司花江(しょうじ はなえ、 (1936-05-04) 1936年5月4日(86歳))、(リードギター)三女、秋田県秋田市生まれ。本名は月村花江。さち子プロ→石井光三オフィス→SHUプロモーション所属。かしまし娘休止後は女優・タレントとして活動のほか、司会なども行う。終戦は樺太サハリン)で迎えている。ドサ回りで育ったため、方言がおかしく朝日放送[2]専属時代に番組プロデューサーからたしなめられた。後に別のプロデューサーと結婚。駒ひかる(OSK男役スター、後の三代目桂米朝夫人)のファン。
来歴

父は
尺八吹きから安来節を歌うなど多芸であった、母は出雲高子という芸名で追分唄いで、一家で旅回りの一座を組んでいた。三人とも3歳で初舞台を踏まされる(2019年で芸歴87年、83年、80年になる)。歌江は座員だった都上英二漫才を仕込まれた。1941年頃、歌江・照江が名古屋寄席に出ていたころ神戸の岡田芸能社のスカウト新興キネマ演芸部の手見せに呼ばれ晴れて所属になり「天才少女姉妹漫才コンビ」として売り出される、幼い花江は別の一座に預けられ、少女歌手として旅回りしていた。

1948年 歌江がヒロポン中毒のため転地療養、その後かつて巡業した先の興行主のつてを頼り富山に向かったため、旅回り一座に残っていた花江を呼び戻し、照枝・花江で新コンビ結成。兄貴分の夢路いとし・喜味こいしらから指導を受け、戎橋松竹や名古屋の富士劇場などで歌謡漫才をしていたが、照枝が結核で入院、花江は東京に出ていた横山ホットブラザーズの世話になる。歌江は母と組んだり、別に紹介された素人同然の男性や巴家寅の子(のちの今喜多代)、東文章らと組む。

1956年 勝忠男(戎橋松竹支配人兼新生プロダクション社長。後に松竹芸能を創業)の取り成しで歌江が元に直り、三姉妹でカシマシ娘結成。8月31日に南街劇場ストリップの幕間でデビューする。歌謡曲浪曲民謡小唄長唄を一通りこなせる器用さと、若手三姉妹トリオは他にないこと、実力者・勝の後押しを受けたこと、民放テレビ局の勃興期に当ったことで、どん底から一転して人気者になる。

1958年6月 松竹芸能所属タレント第1号

1959年 朝日放送[2]と民放専属出演契約(?1965年

1965年7月 中座で結成10周年記念公演開催。

1966年 上方漫才大賞受賞

1981年 結成25周年を期にグループ活動を休止し[3][4]、各々ピンになる。
歌江は舞台や講演、照枝は松竹新喜劇に6年間客演し藤山寛美の厳しい稽古に耐え、花江は司会などしていた。

2005年 結成50周年の前祝で、上方お笑い大賞審査員特別賞受賞。記念公演も行う。

その後、ぼちぼち活動再開し、座長公演の傍ら時折テレビ出演等もしているが、テーマソングはカラオケを用い、楽器を持たず専ら漫談を披露している。

2017年2月3日 結成60周年を過ぎ、『徹子の部屋』で久々に3人揃って出演。

2018年1月20日大阪・道頓堀角座で34年ぶりに3人が舞台出演をした[5]

エピソード

歌江は、10年にもおよぶヒロポン中毒であったが、姉妹の協力で回復した。

芸の上の喧嘩が絶えなかったことで有名。他の芸人に迷惑が掛かるため、売れっ子であった若手時代から異例のかしまし専用の楽屋や、運転手付の自動車が用意された。ネタ合わせ中にも口論が絶えないので、台本は数度稽古するだけで舞台に掛けていた。しかし姉妹仲そのものが悪い訳ではなく、私生活では三人にマネージャーや歌江の夫(照枝は現在独身、花江の夫は故人)らを加えて、よく卓を囲んでいる。

三姉妹ともに
大阪府吹田市在住。歩いて2分以内という近所にそれぞれ邸宅を構えている。

島田紳助の番組によく出演していた。これは紳助の師匠である島田洋之介・今喜多代と仲がよかったためである。喜多代は歌江と一時期コンビを組んでいた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef