正倉院
正倉院正倉地図
情報
旧用途正倉院宝物の収蔵
構造形式校倉造
所在地〒630-8211
奈良県奈良市雑司町129
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度41分30.7秒 東経135度50分18.8秒 / 北緯34.691861度 東経135.838556度 / 34.691861; 135.838556 (正倉院)
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "正倉院" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年11月)
正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な正倉(高床倉庫)。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平文化を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。 江戸時代までは朝廷の監督の下、東大寺によって管理されていた[1]。1875年(明治8年)、収蔵されていた宝物の重要性に鑑み、内務省の管理下に移った。1881年(明治14年)4月7日、農商務省の設置に伴い、内務省博物局が農商務省へ移管され、1884年(明治17年)5月に宮内省所管となった。1908年(明治41年)4月、正倉院は帝室博物館の主管となり、1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行により正倉院を含めて皇室用財産が国有財産になったことに伴い、宮内府図書寮の主管となった。現在は宮内庁の施設等機関である正倉院事務所が正倉院宝庫および正倉院宝物を管理している。 正倉院が所蔵する宝物の9割以上は異国風のデザインを取り入れた日本産であるが[2][3]、中国(唐)や西域、ペルシャなどからの輸入品もあることから、日本がシルクロードの東の終点と言われる由縁となっている。正倉院は、絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面などの古代の美術工芸の粋を集めた文化財の一大宝庫であり、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵されている。 宝物の意匠や文様にはペルシャなど西アジア起源のものが多く、宝物に用いられている素材にもアフガニスタン特産のラピスラズリなどがあるが、西アジアで制作された宝物はガラス器(白瑠璃碗、紺瑠璃坏)を除くとほとんどなく、多くが日本で異国風を取り入れて制作されたものである[3]。近年の調査研究によると所蔵する宝物の95%が日本産であると考えられている[2]。 奈良時代の官庁や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録から知られる。「正倉」とは、元来「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された米穀や調布などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられたものだった。また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する正倉があり、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」と称した。南都七大寺にはそれぞれに正倉院が存在したが、歳月の経過で廃絶して東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残ったため、「正倉院」は東大寺に所在する正倉院宝庫を指す固有名詞と化した。 なお、現代においては、「正倉院」は貴重な文化財の宝庫である事を指す比喩表現としても使われることがあり、例えば沖ノ島は「海の正倉院」[4]、高野山霊宝館は「山の正倉院」[5]、春日大社は「平安の正倉院」[6][7]、国宝の平城宮跡出土木簡は「地下の正倉院」と呼称されることがある[8]。 756年7月22日(天平勝宝8歳6月21日)、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献したのが始まりである。光明皇太后はその後も3度にわたって自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献し、これらの献納品は正倉院に納められた。献納品目録である『東大寺献物帳』も正倉院に保管されている。献物帳は五巻からなり、それぞれ『国家珍宝帳』、『種々薬帳』、『?風花氈等帳』、『大小王真跡帳』、『藤原公真跡?風帳』と通称されている。 正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)に区分される。 北倉は主に聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていた。また、950年(天暦4年)、東大寺羂索院(けんざくいん)・双倉(ならびくら)が破損した際、そこに収められていた物品が正倉院南倉に移されている。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会(かいげんえ)に使用された物品なども納められており、1185年(文治元年)の後白河法皇による大仏再興の開眼会に宝物の仏具類が用いられた。そのほか、長い年月の間には、修理などのために宝物が倉から取り出されることが度々あり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在場所はかなり移動している。上述のような倉ごとの品物の区分は明治以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再整理されたものである。 『献物帳』記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。刀剣類などは藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている。
概要
正倉院の語義
正倉院宝物献物帳 国家珍宝帳 冒頭