建仁寺
所在地京都府京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町584
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度0分3.55秒 東経135度46分25.19秒 / 北緯35.0009861度 東経135.7736639度 / 35.0009861; 135.7736639 (建仁寺)
建仁寺(けんにんじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山の寺院。山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。かつて京都五山の第3位であった。「建仁寺の学問面」などと呼ばれる。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。
俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などがある。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。
なお、しばしば日本最初の禅寺といわれるが、これは間違いで、博多の聖福寺(妙心寺派)が最初の禅寺である。 日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西であるとされている。栄西は永治元年(1141年)、備中国に生まれた。13歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航した。1度目の渡宋はわずか半年であったが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅した。 建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て帰国する。当時、京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。栄西は初め九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となる。 その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、元号を寺号とし、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。 創建当時の建仁寺は真言院・止観院を構え、天台・真言・禅宗の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。 寛元4年(1246年)6月と翌寛元5年(1247年)、そして建長8年(1256年)7月に焼失し衰微した。しかし、正嘉元年(1258年)5月、東福寺開山の円爾(聖一国師)が当山に入寺し仏殿などを復興する。翌、正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺し、臨済禅道場となりこの頃から純粋禅の寺院となる。文永2年(1265年)には臨済禅寺となり、寺名を建寧寺に改名する。 暦応3年(1340年)10月には佐々木道誉による妙法院焼き討ちの際に輪蔵、開山堂、塔頭瑞法庵などが類焼している。 康安元年(1361年)南北朝の戦乱に巻き込まれた幼少期の足利義満の避難先となった。 応永4年(1397年)11月、焼失。応仁の乱に巻き込まれて焼失。文明13年(1481年)にも炎上している。当寺は火災が多く創建当時の建物は残っていない。 天正年間(1573年 - 1592年)に安国寺恵瓊が復興に努め、江戸時代にも修理が継続して行われた[1]。 慶長19年(1614年)には徳川家康により寺領820石が安堵されている。 明治元年(1868年)には廃仏毀釈により34院あった塔頭が14院となった。 1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風接近による強風のため庫裏が倒壊[2]。 当寺の西にはかつての鎮守社であった京都ゑびす神社がある。 法堂勅使門三門(望闕楼)方丈と大玄関本坊
歴史
境内
法堂(京都府指定有形文化財) - 仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(はっとう、講堂にあたる)を兼ねている当寺の本堂。明和2年(1765年)再建。また、2002年(平成14年)創建800年を記念して天井に小泉淳作により「双龍図」が描かれた。方丈と渡り廊下で繋がっている。
庫裏(京都府指定有形文化財) - 本坊。文化11年(1814年)再建。
方丈(重要文化財) - 長享元年(1487年)の建立で、もと安芸国の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長4年(1599年)に建仁寺に移築したもの。東側に設けられた大玄関を介して本坊と連結する。創建当初は?葺であったが元文元年(1736年)に瓦葺きに改められた。建物の外周すべてに建具が入り壁が少ない構造のためか、1934年(昭和9年)の室戸台風で倒壊し、1940年(昭和15年)に創建当初の?葺で復旧された。その後1962年(昭和37年)に銅板葺きに改められていたが、2013年(平成25年)に?葺に復した。各室には桃山時代の画壇を代表する画家の一人である海北友松の水墨障壁画があったが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されている。