正中の変
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「多治見国長公遺址」(岐阜県多治見市)。正中元年事件によって、史実と『太平記』の双方で戦死した武将多治見国長の関連史跡。

正中の変(しょうちゅうのへん)は、鎌倉時代後期の元亨4年9月19日1324年10月7日)に、後醍醐天皇とその腹心の日野資朝日野俊基が、鎌倉幕府に対して討幕を計画した事件。通説では「後醍醐天皇が首謀者であることは幕府側の誰にも明らかであったが、幕府は天皇との対立を避けてうやむやにしてしまった」とされるが、異説も存在する(後述)。4か月に及ぶ幕府の調査の結果、後醍醐と俊基は冤罪とされ、公式に無罪判決を受けた。しかし、資朝は有罪ともいえないが疑惑が完全には晴れないので無罪ともいえない、として曖昧な理由のまま佐渡国新潟県佐渡市)へ遠流となった。この事件の7年後に元弘の乱が勃発し、9年後に幕府が滅亡することになる。

なお、事件発生時の元号は「元亨」であるが、この年の12月9日(西暦12月25日)に改元があって正中元年となった。そのため、「正中」の元号を付けて呼ばれる。

この事件に対する解釈について、通説軍記物語太平記』(1370年頃完成)による「討幕説」である。後醍醐天皇は天皇家の異端児にして討幕に執念を燃やす不撓不屈の男であり、無罪判決は幕府の弱腰姿勢のためだったという。
概要 

本節では、まず初めに軍記物語太平記』(1370年ごろ)に端を発し、20世紀後半に日本史研究者の佐藤進一網野善彦によって発展された伝統的通説を示す。この通説では、正中の変は「一回目の倒幕計画」となる。なお、『太平記』説の中には、実証的にほぼ明確に否定されている部分もある。しかし、『太平記』説と倒幕説を明確に切り分けることは困難であるため、より歴史的事実に近いと実証的に示される点については大括弧([])で補記を加えた。

鎌倉時代末期、皇統は大覚寺統(後の南朝)と持明院統(後の北朝)に分裂していた(両統迭立)。大覚寺統の天皇である後醍醐天皇は、観念論的・独裁者的な性格の異形の天皇で、父の後宇多上皇とは憎悪し合っていた。後醍醐は天皇親政の理想を志し、即位当初から幕府打倒を目指す闘争心溢れる君主だった。

後醍醐は、関東申次(朝廷と幕府の交渉役)である前太政大臣西園寺実兼の娘の西園寺禧子中宮皇后)としたが、禧子を嫌悪し、全く手をつけなかった[実際は禧子との間には懽子内親王という皇女がいる]。代わりに、後醍醐は阿野廉子という側室を准三宮という中宮に准じる位に付け、禧子を差し置いて寵愛したため、国政は腐敗していった[実際は廉子が准三宮になったのは禧子の崩御後である]。

元亨2年(1322年)春ごろ、後醍醐は禧子の御産祈祷という名目で偽って、幕府打倒の呪詛を行った[実際は御産祈祷が行われたのは、正中の変より後の嘉暦元年(1326年)以降]。さらに、後醍醐と側近の日野資朝日野俊基らは、無礼講という美姫を侍らせた淫らな酒宴を開き、倒幕の志士を集めた[実際の無礼講は学芸に優れた才人が集まった茶会]。

後醍醐は土岐氏嫡流の武将である土岐頼貞や、その親族の多治見国長を味方につけ、倒幕を図った[実際に関与を疑われたのは、土岐氏嫡流の頼貞ではなく、傍系の土岐頼有]。しかし、土岐頼員が、妻の父で六波羅探題奉行人である斎藤利行に密告したことにより、倒幕計画は事前に発覚した。そして、元亨4年9月19日1324年10月7日)朝、頼貞や国長は六波羅に攻められて自害した。

資朝と俊基は、証言者となる頼貞や国長が戦死したので、自分たちに累は及ぶまいと楽観視していたが、半年以上にわたる捜査を進めてきた幕府によって、正中2年(1325年)5月に捕縛された[実際は正中の変当日に、資朝・俊基は幕府の取り調べ要請に素直に応じて出頭している]。弱気になった後醍醐は、同年7月7日、幕府に謝罪の書状を送った[実際は謝罪文ではなく真犯人を探し出せという命令文だった]。

幕府の重臣の二階堂道蘊(貞藤)は、恐れ多いとして書状を返却しようとしたが、得宗北条高時は無理にこれを斎藤利行に読ませた。すると、利行は突然鼻血を出して7日間のうちに死んだため、人々は神仏の祟りだと噂した[実際の利行の命日は正中の変が終結して1年以上後の嘉暦元年(1326年)5月]。こうした事件や、勅使の万里小路宣房の釈明によって、幕府は弱腰姿勢になり、後醍醐と俊基には無罪判決が下ったが、資朝は流刑となった[このように『太平記』説では正中の変が終結したのは7月7日以降だが、実際は2月中に終結している]。

こうして1回目の倒幕計画を阻止された後醍醐天皇だったが、7年ごしの倒幕計画を立て、元徳3年(元弘元年、1331年)に、2回目の討幕運動である元弘の乱を起こすことになる。
冤罪説の主張 
前半

本節では、2007年に、実証的研究を元に日本史研究者の河内祥輔によって唱えられ、2010年代に亀田俊和呉座勇一から大枠で支持された説を示す。この説では、本事件の解釈は以下のようになる。

鎌倉時代末期、皇統大覚寺統(後の南朝)と持明院統(後の北朝)に分裂していた(両統迭立)。大覚寺統の天皇である後醍醐天皇は、「末代の英主」と称えられた父の後宇多上皇の政治路線を引き継いで訴訟制度改革に取り組んでいた。後醍醐はまた、朝幕協調を志向する融和的な君主で、関東申次(朝廷と幕府の交渉役)である前太政大臣西園寺実兼の娘の西園寺禧子中宮皇后)としており、正妃の禧子と義父の実兼の影響力を通じて、幕府との友好路線を堅持していた。

しかし、元亨4年(1324年6月25日に後宇多が崩御すると、大覚寺統の准直系である後醍醐と、正嫡である甥の皇太子邦良親王との間で、大覚寺統内での後継者争いが徐々に表面化してきた。この争いに対し、邦良派もしくは持明院統は、後醍醐が倒幕を計画しているという虚偽の情報を流すことで、後醍醐の失脚を図った。

同年9月19日1324年10月7日)朝、土岐氏傍流の武士である土岐頼員は、持明院統(あるいは邦良派)の意を受け、妻の父である六波羅探題奉行人の斎藤利行に「倒幕計画」を密告した。利行からの報告を受けた六波羅探題は、実行犯とされる多治見国長と土岐頼有に出頭を要請したが、両者はそれを拒否したため戦いになり、最終的に両者は自害した。こうして、倒幕計画の証拠は、頼員の「自白」のみが残った。しかし、仮に頼員の主張が正しかったとしても、倒幕の軍事力は国長・頼有・頼員の弱小な3武将にすぎず、疑わしさが残るものだった。そこで、六波羅は同日午後、後醍醐派の公家である日野資朝日野俊基に出頭を要請して調査を進め、両人はこれに応じて拘禁された。

後醍醐天皇は鎌倉幕府への釈明のため、9月23日に腹心「後の三房」の一人である万里小路宣房を関東に派遣し、10月5日に鎌倉入りした宣房は弁明を行った。一方、宣房と入れ替わりで、邦良派の六条有忠が京都に帰還し、皇太子邦良親王に「吉報」を伝えた。ここから推測すると、9月下旬から10月上旬には、幕府首脳部は後醍醐有罪・邦良即位に決まりかけていたと考えられる。しかし、後醍醐が宣房を通じて幕府に告げたのは、謝罪ではなく、「真の謀反人を捕縛せよ」という命令だった。

10月22日、宣房は帰京し、後醍醐無罪の判決を報告した。これは、幕府側が後醍醐の命令に直接屈した訳ではなく、慎重な調査の結果、本当に後醍醐が冤罪だったと判明したからであると推測される。なぜなら、大覚寺統正嫡である邦良と持明院統に比べれば、後醍醐の立場は脆弱であり、本当に後醍醐が倒幕を計画していたとすれば、幕府が後醍醐に配慮すべき理由は何もないからである。
後半

後醍醐天皇無罪判決の後も、側近の日野資朝日野俊基は、無礼講という身分秩序を無視した茶会を開いたことを口実に、鎌倉へ護送され、取り調べが続いた。これは、事態をうやむやにしたい幕府の意向があったのだと推測される。もし後醍醐派を完全に無罪としてしまうと、今度は黒幕として持明院統や邦良親王を捜査せざるを得なくなるが、すると天皇家内部での明確な敵対が世間に明るみに出てしまい、天皇家と一定の距離を保ちつつ秩序を維持したい幕府にとっては最悪の事態になってしまう。そこで、他愛もない風紀問題を口実に資朝・俊基を捕縛して、政治的判断を下すための時間を稼いだのではないか、と推測されている。

しかし年が明けた正中2年(1325年)1月には、後醍醐派・邦良派・持明院統は各々使者を鎌倉に走らせ、3党の政治的対立は激しさを増していた。幕府首脳部からの資朝と俊基の処遇については、仮決定段階では、俊基は完全な無罪とするものの、資朝は無罪ではあるが流刑とする、という奇妙な処置に決まりかけていた。しかし、幕府最大の実力者である長崎円喜(高綱)が、資朝の有罪を強硬に主張した。

そのため、同年2月9日、俊基は疑わしい点もあるものの証拠不十分で無罪、資朝は有罪とも無罪とも言えないので佐渡国新潟県佐渡市)に流刑とする、という正式な判決が下った。


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