正三位
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正三位(しょうさんみ[1])とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおきみつのくらい」「おおいみつのくらい」とも読む[1]
概要

律令制下においては、従三位以上を「貴」と称し、また「星の位」ともいわれ、上級貴族の位階であった。従三位が中納言近衛大将、大宰帥などと官位相当であるのに対し、正三位は大納言相当とされた。勲等との対比では勲一等に値する。

時代が下るにつれ、官位相当によらない叙位任官も増え、官位相当の大納言は従二位大将中将も二位及び三位で運用されたため、中納言でこの位階に叙せられる例も少なくなかった。これにより、本来、上位の位階である筈の正三位も比較的中堅公卿の位階として定着するようになったのをはじめ、本来は堂上となる筈のなかった武家も、中央政界の争乱への関与と貢献を重ねるうちに身分を上昇させ、正三位またはその前後への位階に昇る例が見られるようになった。

武家政治の創始者ともいうべき平清盛の官途はその先駆的な例であり、永暦元年(1160年)、前年の平治の乱で宿敵 源氏の棟梁 源義朝を打倒した清盛は武士として初の正三位となり、参議右兵衛督となりさらに官途を重ねて最終的に従一位太政大臣となった。清盛の嫡男 重盛が正三位参議を経て後に正二位内大臣となり、重盛の死後、清盛の後継に擁立された三男 宗盛もまた正三位参議を経て、最終的に従一位内大臣となった。清盛四男の知盛は正三位権中納言を経て従二位に、五男の重衡は従三位左近衛中将より正三位となった。

鎌倉時代以降となると、正三位は征夷大将軍またはその世子が昇叙の段階で上る位階となり、鎌倉幕府二代将軍の源頼家将軍宣下前に左衛門督任官した際この正三位に叙せられ、その弟 三代将軍 源実朝右兵衛佐従五位下で叙爵と同時に征夷大将軍を宣下された後、昇叙を重ね正三位行右近衛中将に昇った後に、最終的に右大臣正二位まで上り詰めた。その次代である摂家将軍藤原頼経正五位下を初叙とした他は実朝とほぼ同じ位階で昇進を重ね、正三位権中納言を経て、最終的に正二位権大納言となっている。

その後、皇族が将軍となる宮将軍がしばらく続いたことから、人臣の位階たる武家への正三位叙位はしばらく途絶えたものの、後醍醐天皇による北条高時追討により鎌倉幕府が滅亡すると、建武元年(1335年)、足利尊氏が正三位参議兼左兵衛督となる例が見られた。しかし、足利将軍家の位階が正二位内大臣で定着するようになると、将軍及びその世子の官途も従三位からいきなり従二位へと昇る例が増え、正三位への叙位は四代将軍 義持とその弟 足利義嗣、九代将軍 義尚が官途のさなかに正三位への叙位がなされた例に留まった。戦国時代後期以降では織田信長が安土城を完成させた、天正4年(1576年)、正三位に昇ったのをはじめ、織田信長嫡孫 織田秀信は正三位権中納言となり、信長四男で豊臣秀吉の養子となった羽柴秀勝も秀信と同じ官位を授けられた他、秀吉の弟 豊臣秀長徳川家康が正三位を経て従二位へと昇叙する例が見られたが、高位ということもあり、武家の叙位にあっては、正三位叙位の発令は決して多いというものではなかった。

江戸時代以降では、正三位はほぼ徳川将軍家または一門の当主のみが昇る位階となったが、それでも決して叙位例は多いとはいえず、240年の江戸時代の歴史の中で、将軍となった者に対する正三位への叙位は三代将軍 徳川家光が初叙で正三位となった他、五代将軍綱吉が承応2年(1653年)、元服した年に従四位下から正三位に昇叙し後に参議に任官、後に六代将軍となる徳川家宣も甲州藩主時代の延宝 8年(1680年)に正三位参議となった例に留まった(将軍世子は、そもそも初叙が従二位となり、他家から将軍になった者であっても、従三位から正三位を経ずに正二位に昇る。)。また、徳川一門でも正三位への叙位は特殊であったとさえいえ、家康次男で越前福井藩初代藩主の結城秀康は生前正三位であった他、御三家でも家康九男 徳川義直にはじまる尾張藩歴代十七代の藩主のうち、二代 徳川光友が正三位権中納言から権大納言、従二位へと昇り、三代 綱誠がこれにならう形で正三位に叙せられただけに留まり、紀州藩でも歴代藩主十四代のうち、正三位に叙せられた例は二代藩主 光貞が正三位権中納言を経て後に従二位権大納言となった他は、十四代藩主 茂承だけであった。

近代以降、正三位の位階は華族の爵位における伯爵の初叙位階とされた他、陸軍大将海軍大将などが叙せられる位階となった。西郷隆盛は生前に正三位に叙せられるも西南戦争において官位を褫奪され「賊軍の将」とされたが、大日本帝国憲法発布による大赦により赦され、改めて正三位を贈られることで名誉回復がなされた。今日では、位階が物故者を対象とする栄典となったのに伴い、国務大臣経験者の他、政府の重要官職にあった者、学術分野において多大な功労ある人物が死後に叙せられるのが通例となっている。芸術・芸能分野で正三位に叙せられる例は、極めて少ない。
正三位に叙された主な人物

名前叙位日備考・説明
藤原不比等大宝元年3月21日
(701年5月3日)大納言
粟田真人霊亀元年4月25日
(715年6月1日)中納言
長屋王霊亀2年正月5日
(716年2月2日)
橘三千代養老5年正月5日
(721年2月5日)
藤原武智麻呂神亀元年2月4日
(724年3月3日)中納言、従三位から進階
藤原房前神亀元年2月4日
(724年3月3日)参議内臣、従三位から進階
藤原宇合天平6年正月17日
(734年2月24日)参議、従三位から進階
藤原武智麻呂の娘天平9年2月14日
(737年3月19日)聖武天皇夫人
藤原房前の娘天平9年2月14日
(737年3月19日)聖武天皇夫人
橘諸兄天平10年1月13日
(738年2月6日)右大臣、従三位から進階
藤原仲麻呂天平20年3月22日
(748年4月24日)参議、従三位から進階
当麻山背天平宝字2年8月1日
(758年9月7日)淳仁天皇実母
藤原永手天平宝字8年9月11日
(764年10月10日)大納言、従三位から進階
藤原真楯天平宝字8年9月12日
(764年10月11日)中納言、従三位から進階
高野新笠天応元年4月27日
(781年5月24日)皇太夫人光仁天皇夫人)、従三位から進階
藤原継縄天応元年9月3日


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