歌川広重
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その他の同名の人物については「歌川広重 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

歌川 広重
広重の死絵3代豊国筆、安政5年(1858年))
誕生日1797年
出生地 日本 江戸八代洲河岸
死没年1858年10月12日(1858-10-12)
死没地 日本 江戸
国籍 日本
芸術分野浮世絵
代表作『東海道五十三次』『名所江戸百景
影響を受けた
芸術家歌川豊広葛飾北斎
影響を与えた
芸術家小林清親印象派等の西洋芸術
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歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日1858年10月12日)は、江戸時代浮世絵師。本名は安藤重右衛門。幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。「安藤広重」と呼ばれたこともあるが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。

江戸定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった[1]。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。
人物・略歴東海道五十三次之内 日本橋名所江戸百景 大はしあたけの夕立

広重は、江戸'"`UNIQ--templatestyles-00000004-QINU`"'八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷[注釈 1]同心、安藤源右衛門の子として誕生。源右衛門は元々田中家の人間で、安藤家の養子に入って妻を迎えた。長女と次女、さらに長男広重、広重の下に三女がいた。文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が火消同心職を継ぐ。同年12月に父も死去。

幼いころからの絵心が勝り、文化8年(1811年)15歳のころ、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広1774年-1829年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用してデビュー。

文政4年(1821年)に、同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。文政6年(1823年)には、養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となったが、まだ仲次郎が8歳だったので引き続き火消同心職の代番を勤めた。

始めは役者絵から出発し、やがて美人画に手をそめたが、文政11年(1828年)師の豊廣没後は風景画を主に制作した。天保元年(1830年)一遊斎から一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。

天保3年 (1832年)、仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専心することとなった。一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、このころ大岡雲峰に就いて南画を修めている[2]

この年、公用で東海道を上り、絵を描いたとされるが、現在では疑問視されている。翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画張交絵戯画玩具絵春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画(肉筆浮世絵)・摺物団扇絵双六・絵封筒ほか絵本・合巻狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。

天保7年(1836年)8月14日に柳橋万八楼にて開催されて曲亭馬琴の古稀祝賀書画会に出席している。

天保8年(1837年)、中山道を経由して大坂から四国丸亀へ旅行をして、帰路は奈良伊勢を経て東海道を通って江戸へ帰った。

天保9年(1838年)閏4月18日に柳橋河内屋にて開催された二代目柳川重信の書画会に出席している。

安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は顕功院徳翁立斎居士。友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。

東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん

(「死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい」の意)
江戸での住居

文久年間(1861年から1863年)の「江戸日本橋南之絵図」によると、日本橋大鋸(おおが)町(現在の京橋)に広重の住居があり[3]、西隣には狩野永悳の旧居が印刷されている。

その後、京橋よりに道路5つほど先の、常磐町に移転したようである[4]
辞世の句

辞世の句は、
東路(あづまぢ)に筆をのこして旅の空 西のみくにの名所を見む

であるというが、「後代の広重の作ではないか」とする見解もある。

明治15年(1882年)4月(広重の死後24年目)、門人達が、墨江須崎村の秋葉神社[注釈 2]に碑を建立したが、第二次世界大戦東京大空襲により破壊され、現在は残っていない。
墓所東京都足立区の東岳寺境内の初代広重墓及び記念碑

流行の疫病(コレラ)により安政5年(1858年9月6日61歳で没[注釈 3]。墓所は東京の足立区にある禅宗東岳寺である[注釈 4]
特色
ヒロシゲブルー京都名所之内 淀川左:広重 右下:北斎 右上:モネの構図の類似例

歌川広重の作品は、ヨーロッパアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。

この鮮やかな青は日本古来の藍(インディゴ)の色と間違えられることがあるが、当時ヨーロッパから輸入された新しい顔料であるベロ藍つまり紺青である。木版画の性質から油彩よりも鮮やかな色を示すため、欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて「ヒロシゲブルー」とも呼ばれる。

ヒロシゲブルーは19世紀後半のフランスに発した印象派の画家や、アール・ヌーヴォーの芸術家らに影響を与えたとされ、当時ジャポニスムの流行を生んだ要因の一つともされている[5][6]


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