歌川国貞
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香蝶斎豊国肖像 孝子国貞筆 大判錦絵 元治元年 死絵の内の一作。

歌川 国貞(うたがわ くにさだ、天明6年5月19日[1]1786年6月15日)- 元治元年12月15日1865年1月12日))は、江戸時代浮世絵師。のちの三代目歌川豊国。
略歴歌川国貞 画 『吉原時計  亥ノ刻』歌川国貞 画 『八重織の霊』歌川国貞画「今源氏錦絵合 須磨 十二」

初代歌川豊国の門人。本名は角田 庄五郎(すみた しょうごろう)。後に庄蔵、肖造と改める。画姓として歌を称す。号は、五渡亭(文化8年から天保末)、香蝶楼(文政10年から嘉永初)、一雄斎(文化9年から)、琴雷舎(文化10年)、北梅戸、富望山人、富望庵、桃樹園、応好、月波楼(文化8年)、喜翁(文久2年)、国貞舎豊国、雛獅豊国、浮世又平、不器用又平などがある。面長猪首型の美人画が特徴。存命中と没後で評価が分かれる。弘化元年(1844年)の一陽斎豊国襲名後は工房を安定させ大量の作品を出版、作品の数は浮世絵師の中で最も多い。その作品数は1万点以上に及ぶと言われる。嘉永6年(1853年)の『江戸寿那古細撰記』には「豊国にかほ(似顔)、国芳むしや(武者)、広重めいしよ(名所)」とある。

天明6年(1786年)、江戸本所竪川の五ツ目に渡し船の株を持つ材木問屋の家に生まれた[2]。生家は亀田屋といい、父は庄兵衛といった。15、6歳で豊国の門下に入り[3]、歌川を称し、後に国貞と名乗った。五渡亭の号は狂歌師の大田南畝からつけてもらったものといわれ[4][5]、国貞は他の号を名乗るようになってもこの号を長く愛用しており、天保14年(1843年)まで使用している。文化4年(1807年)22歳ごろから美人画を描き始め[6]、また、同じ文化4年に景物本『不老門(おいせのかど)化粧若水』という滝沢馬琴作の合巻を初筆している。文政8年(1825年)には艶本の挿絵も始めた。文化11年から文化12年ごろの「大当狂言之内」全9枚シリーズを始めとする役者絵は師をも越えた作品と評価された。

英一蝶に私淑しており、文政10年(1827年)ごろより使用した香蝶楼の号は一蝶の「蝶」と一蝶の名の信香の「香」を取ってつけたものであった[7]天保元年(1830年)、英一珪に師事して英一?と号す[7]。文政の後期ごろから猫背猪首スタイルの美人画を描いている。歌川広重と合作した「双筆五十三次」においては、三代目豊国が歌舞伎役者などの人物を描き、広重が風景を描いている。この「双筆五十三次」の内、赤坂の画中に英一?の落款がみられる。天保の改革により、美人画、役者絵にさまざまな制約が加えられたが、改革の抑圧が緩和すると、嘉永ごろにはその反動で彫り摺りの技術は一層高度に極彩、細密なものとなり、目を奪う工芸美といえる浮世絵版画が作られるようになっていった。

天保15年(1844年)正月、二代目豊国を称した。同門の歌川豊重が二代目豊国を襲名していたので実際には国貞は三代目豊国であり、現在も豊重と区別する必要があることから「三代目豊国」と呼ばれる。またその居宅を以って亀戸豊国ともいう。弘化2年(1845年)、剃髪して名も肖造と改める。弘化3年、三代目歌川国政を養子にして二代目歌川国貞を継がせ、文久2年(1862年)の77歳以降、喜翁と号した。

作画期が長く、その作品の量も膨大なものになっている。五渡亭国貞時代の美人画が、良く時代の「粋」な女性像を表現し得ている。また文政12年(1841年)刊行の柳亭種彦作『偐紫田舎源氏』の挿絵は「源氏絵」ブームを巻き起こし、歌舞伎に影響するほどであった。この評判に隠れて役者絵は押されがちであるが、質量ともにやはり独自な世界を持っており、ことに大首絵は優れていた。国貞の肉筆浮世絵も見落とせないが、また国貞時代の春画も彼の力量を良く伝えるものであった。生涯出版した春画版画の作品数も44点と多く、これは渓斎英泉に次ぐ数である。代表作として「浮世名異女図会」、「思事鏡写絵」、「当世美人合」、「当世美人流光好」「時世江戸鹿子」、「江戸名所百人美女」、「星の霜当世風俗」などといった美人画シリーズに秀作があり、「豊国漫画図絵」の役者絵30枚も見逃せない。晩年には歌川広重との合作のシリーズものもみられる。最晩年には大判役者絵の大首絵集を出している。元治元年(1865年)に79歳で死去。墓所は亀戸光明寺にあり、墓も現存している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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