歌川国芳
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歌川 国芳
『枕辺深閏梅』下巻口絵における国芳の自画像[注釈 1]
本名井草芳三郎
誕生日1798年1月1日
出生地 日本 武蔵国 江戸
死没年 (1861-04-14) 1861年4月14日(63歳没)
芸術分野浮世絵
代表作『相馬の古内裏』ほか
活動期間1814 - 1861
影響を受けた
芸術家歌川豊国勝川春亭葛飾北斎3代 堤等琳
影響を与えた
芸術家月岡芳年河鍋暁斎ほか
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歌川 国芳(うたがわ くによし、寛政9年11月15日1798年1月1日[1]) - 文久元年3月5日[2]1861年4月14日))は、江戸時代末期の浮世絵師
生涯

画号文政初年から万延元年にかけて一勇斎国芳といい、後に彩芳舎(文政中期)、朝桜楼(天保初年から万延元年)、雪谷、仙真とも号した。歌川を称し、狂歌の号に柳燕、隠号に一妙開程芳といった。江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人であり、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した。

寛政9年(1798年)、江戸日本橋本銀町一丁目[3][注釈 2](現在の東京都中央区日本橋本石町四丁目あたり)に生まれる。父は京紺屋[3](染物屋)を営む柳屋吉右衛門。幼名は井草芳三郎。後に孫三郎。風景版画で国際的に有名な歌川広重とは同年の生まれであり、同時代に活動した。壮年時には向島に住む。

三囲神社碑文[注釈 3] によれば、国芳は幼少期から絵を学び、7、8歳で北尾重政の『絵本武者鞋』や北尾政美の『諸職画鑑』を写し、12歳で描いた「鍾馗提剣図」を初代歌川豊国1769年 - 1825年)が目に留め、文化8年(1811年)に15歳で入門した[4] という。豊国は華麗な役者絵で一世を風靡した花形絵師であり、兄弟子に歌川国貞1786年 - 1864年)がいる。国芳の名は入門の数年後、文化10年(1813年)頃の刊行とみられる戯作者・浮世絵師の相撲見立番付の前頭27枚目に挙げられており、翌文化11年(1814年)頃刊の合巻『御無事忠臣蔵』(竹塚東子作)表紙と挿絵が初作とされる。翌文化12年(1815年)の錦絵「市川市蔵の金輪五郎今国・三代目中村歌右衛門のおみわ」(『妹背山女庭訓』)頃から一枚絵を制作し始めており、この年の錦絵に『三世中村歌右衛門の春藤次郎左衛門』がある。また、文化13年(1816年)には錦絵「浅尾勇次郎・五代目岩井半四郎・七代目市川団十郎」(『清盛栄花台』)を描いており、本作は斎号を用いた年代を特定できる最初の作品であった。国芳は学資が乏しく月謝が払えないので、すでに歌川派を代表していた兄弟子・歌川国直の家に居候し、彼の仕事を手伝いながら腕を磨く[注釈 4]。この時期は役者絵や合巻の挿絵などを描いていたが、あまり人気が出ず作品も僅かであった。また、勝川春亭にも学んでおり、さらに葛飾北斎の影響も受け、後に3代堤等琳に学んで、雪谷とも号した。

文政初年、錦絵『平知盛亡霊図』や『大山石尊良弁滝之図』によって一時は人気を得たが、文政6年(1823年)ころ銀座の川口屋正蔵及び日本橋川口屋長蔵という版元から役者絵を出すも、師豊国や兄弟子国貞の人気に勝てず、その後しばらくは不遇であった。そして師の豊国没後の文政10年(1827年)頃に発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』や天保元年(1830年)頃の『本朝水滸伝豪傑八百人』という『水滸伝』のシリーズ[注釈 5] が評判となる。“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りを果たした。『東都名所』などの西洋の陰影表現を取り入れた名所絵風景画)にも優れており、美人画役者絵、狂画(戯画)にも多くの力作を残している。

その後、天保元年(1830年)頃、新和泉町玄冶店の借家に住始め、朝桜楼の号を使用し始めた。この頃、武者絵、洋風風景画、美人画、魚類画、風刺画などを近代的な写実眼によって制作している。『通俗三国志之内 華陀骨刮関羽箭療治図』 華佗の医術で肘の切開手術を受ける関羽

『源頼光公館土蜘作妖怪図』

天保6年(1835年)、歌川芳宗が入門する。国芳は天保8年(1837年)12月までには向島に移り住んでいる。ところが国芳45歳の時、運命は一変する。老中水野忠邦による天保の改革。質素倹約、風紀粛清の号令の元、天保13年(1842年)には国芳や国貞らも人情本、艶本が取締りによって絶版処分となる。また浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受ける。江戸幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。『源頼光公館土蜘作妖怪図』(1843年天保14年))は、表向きは平安時代の武将源頼光による土蜘蛛退治を描いたものだが、本当は土蜘蛛を退治するどころか妖術に苦しめられているのは頼光と見せかけて実は、将軍・徳川家慶であり、国家危急の時に惰眠をむさぼっているとの批判が込められている。主君が危機だと言うのにソッポ向く卜部季武と見せかけ、天保の改革の中心人物、老中・水野忠邦である。また、着衣の家紋や模様から、他の頼光四天王で碁を打っている渡辺綱真田幸貫坂田金時堀田正睦、湯飲みを持っている碓井貞光土井利位、土蜘蛛は筒井政憲矢部定謙、美濃部茂育を指すとされ、他の小物類も当時の人物たちとされる。そして奥にはユーモラスな妖怪たちがいるが、実は天保の改革の被害者たちである。富くじが禁止された富くじ妖怪、歯のないろくろ首には歯なし→噺など寄席の禁止を恨んだものなど、絵のいたるところに隠されている悪政に対する風刺が込められている。江戸の人々は謎を解いては溜飲を下げて大喜びした。しかし、幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。国芳は何度も奉行所に呼び出され、尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。それでも国芳の筆は止まらず、禁令の網をかいくぐりながら、幕府を風刺する国芳に江戸の人々は喝采を浴びせた。国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。

弘化元年(1844年)、国芳は葛飾北斎門人の大塚道菴の紹介により、北斎と出会っている。なお、この時、独楽廻し竹沢藤治の絵看板を描く際、この道菴を雇って補筆させた。同年、『縞揃女弁慶』において芳桐印を使用する。弘化3年(1846年)に大判3枚続の錦絵『里すずめねぐらの仮宿』が雀の衣服の紋に名主印が捺されたことで問題となった。やがて目の上のタンコブであった水野忠邦は失脚。国芳は待ってましたとばかりに弘化から嘉永期には奇想漲る武者絵3枚続を描いて江戸の人々の度肝を抜く武者絵を世に送り出して新機軸を見せた。国芳の描いた『宮本武蔵と巨鯨』(1848年嘉永元年) - 1854年安政元年))は、浮世絵3枚分に描かれたまるで大スペクタル絵画である。武蔵の強さを表現するのに相手が人間では物足りない。桁違いの鯨と戦わせることでヒーロー武蔵の強さを伝え、国芳を称える声が満ち溢れた。

武者絵で大成功を収めた国芳は、1人の絵師として気にかけていたものがあった。国芳は『近江の国の勇婦於兼』(1830年(天保元年))で、画面左側の女性は伝統的な美人画の技法で描かれているが、対する馬はまるで西洋画のようにリアルな立体感が陰影によって描かれている。実は国芳は当時なかなか手に入れることができなかった西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の付け方の研究に励んでいた。


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