欽哀蕭皇后(きんあいしょうこうごう、? - 1057年)は、遼(契丹)の聖宗の妃。興宗の母であり、皇太后となった。小字は耨斤。 蕭陶瑰
目次
1 経歴
2 伝説
3 子女
3.1 男子
3.2 女子
4 伝記資料
経歴
重熙元年(1032年)11月、法天応運仁徳章聖皇太后と尊称された。3年(1034年)、太后はひそかに弟たちを召しだし、次男の耶律重元を立てようと図ったが、重元はその陰謀を興宗に告白した。興宗は太后の符璽を剥奪し、身柄を慶州の七括宮に移した。8年(1039年)7月、興宗は母の身柄をよそに移したことを後悔して、自ら馬車を御して太后を迎え、そばで孝養を尽くした。23年(1054年)11月、仁慈聖善欽孝広徳安靖貞純寛厚崇覚儀天皇太后と尊称された。24年(1055年)8月、興宗が死去すると、太后は取り乱して、「汝の年はなお幼く、何ぞ哀痛かくの如し」と言って悲しんだ。
清寧元年(1055年)9月、太皇太后と尊称された。3年(1057年)12月、死去した。慶陵に陪葬された。4年(1058年)5月、欽哀皇后と諡された。
伝説
耨斤の顔は浅黒く、斜視であった。
耨斤の母は天に昇る金の柱を夢に見て、子どもたちに登らせようとしたができなかった。耨斤が後にやってきて、下僕とともに登るとみな登れたので、不思議がった。
耨斤が後宮に入った後、承天太后の寝椅子から金鶏を取って呑みこむと、耨斤の肌の色はいつも光沢をもって輝くようになった。承天太后は驚いて「これ必ずや奇子あらん」と言った。
子女
男子
耶律宗真(興宗)
耶律重元(秦国王、皇太弟)
女子
耶律巌母菫(魏国公主)
耶律?古(越国公主)
伝記資料
『遼史』巻71 列伝第1
『契丹国志』巻13
更新日時:2019年7月5日(金)10:00
取得日時:2019/08/02 01:19