欧米系島民
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欧米系島民欧米系島民の牧師(戦前)
総人口
不明
居住地域
小笠原諸島関東地方
言語
小笠原方言日本語英語
宗教
キリスト教仏教
関連する民族
アメリカ人ポリネシア人カナカ族
父島の大根山墓地。欧米系島民の墓所

欧米系島民(おうべいけいとうみん)は、日本における小笠原諸島に住んでいた人々とその子孫を指す表現。1876年明治政府による領有宣言以前から外国より小笠原諸島に入植し、日本の統治下に置かれたあとも住み続けていた島民とその子孫を指す言葉。
語彙の由来

「欧米系島民」という語彙は、戦後に小笠原諸島を統治したアメリカの公文書に記されている「Caucasian Descendants of Original American and European Settlers」「Families of American-European Origin」を日本語に翻訳したものが起源とされている。ただし小笠原への入植者や移住者はハワイ人ポリネシア人が含まれており、欧米系白人のみを意味しない。

戦前は「帰化人」や「在来島民」という表現が使われていた。なお、明治以降に移住した日本の内地人は現地では「移住民」と呼ばれていた。
入植の歴史
外国人島民の変遷

19世紀初頭にフランス人ジャン=ピエール・アベル=レミュザが、林子平の『三国通覧図説』を引用してボニン・アイランズ (無人嶋, Bonin Islands) をヨーロッパへ紹介してから、外国の船が小笠原諸島へと寄港するようになる。それに伴い来島者が残した航海日誌や探検報告書にボニン・アイランズが現れ、その記述中に小笠原諸島に自ら住みついた白人カナカ人太平洋諸島先住民)住人の記述が出現するようになる。

1827年5月、行方不明船を探索していた艦長フレデリック・ウィリアム・ビーチー(Frederick William Beechey)率いるイギリス海軍のブロッサム号(英語版)(HMS Blossom)が、琉球から東へ進路を取りボニン・アイランズをめざした。一行は6月8日に島々を発見。翌9日[1](または11日[2])に現在の父島二見港のある湾から島へ上陸してみると、前年行方不明となったイギリスの捕鯨船ウィリアム号の乗組員2人と遭遇した。彼らは湾内に停泊中に突風で難破し、その後寄港した捕鯨船ティモール号に仲間は救出されたが、2人は自らの意志で島に留まり暮らすことにした[1][3]。ビーチーは島の領有宣言を記した銅板を木に打ち付けた後出航する[4]。翌1828年5月、ロシアの調査船セニャーヴィン(Сенявин)号が二見港に着くと、前年から留まっていたウィリアム号の2人(水夫長ウィットリエンと水夫ピーターセン[5])と遭遇[1]。彼ら2人は同船で島を後にした[3]
移民団の父島入植

ビーチーの報告を受け、在ホノルルのリチャード・チャールトンイギリス領事の下、ボニン・アイランズへの入植計画が進められる。

1830年、イタリアのラグーサ(現:クロアチアドゥブロヴニク)出身のイギリス人と称するマテオ・マザロ[6]を団長とするイギリス人2名、アメリカ人2名、デンマーク人1名の5名と、太平洋諸島出身の男女25名(15人とも[7])がホノルルを出発し、6月26日に父島に到着して扇浦に入植した[3]。マテオ・マザロからの報告を受け、サンドイッチ諸島イギリス領事代理は、入植地に原住民がいなかったことを同年報告書に記している。

移民団は当初、扇浦に集住していたが、のちに大村や奥村に分かれて住むようになった。入植後も各国の捕鯨船が頻繁に寄港しており[4]、移民団は島で栽培したトウモロコシタマネギなどの野菜類や、アヒルブタなどの家畜をそれらの船に売り、物資や手紙のやりとりをした[1]

1840年陸奥国気仙郡小友浦(現:岩手県陸前高田市小友町)の中吉丸が鹿島灘遭難し、父島に漂着した。船頭の三之丞以下中吉丸漂流民6名は、入植者たちの助けを借りつつ船を修理し、2箇月後に父島を出帆して下総国銚子湊(現:千葉県銚子市)に帰還した。中吉丸漂流民たちは幕府に対し、当時の島民たちの暮らしや言語について報告している[1]

その後、英米人入植者のあいだで対立が起き、1839年頃には、マザロがアメリカ人ナサニエル・セボリー暗殺計画を企てるまでに関係は悪化した[1]


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