欧州連合軍
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欧州連合軍最高司令部
Supreme Headquarters Allied Powers Europe

記章と司令部旗
創設1951年 -
所属組織 NATO
兵種/任務/特性コマンド
所在地フランスパリ(1951年 - 1967年)
ベルギーモンス(1967年 - )
標語ラテン語:Vigilia Pretium Libertatis
上級単位直接:NATO軍事委員会
間接:NATO事務総長
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メジエール(ベルギー)の司令部にはためく加盟国国旗。1981年、メジエール(ベルギー)の欧州連合軍最高司令部をベルギーのボードゥアン国王が訪問した際に行われた儀仗の様子。1981年、国王訪問の際、司令部前にて対面する欧州連合軍最高司令官たるロジャース大将とボードゥアン国王、フランク・スウェレン国防大臣、ベルギー軍の司令官と国家憲兵のランビロッテ大佐。

欧州連合軍最高司令部(おうしゅうれんごうぐんさいこうしれいぶ、英語:Supreme Headquarters Allied Powers Europe、略称:SHAPE、シェイプ)は、北大西洋条約機構の軍事部門のヨーロッパ大陸における最上級司令部。[1]ベルギーモンス郊外の北にあるカストー(en:Casteau)付近に司令部施設が所在している。1951年に設立され欧州戦域(欧州連合軍、Allied Command Europe、ACE)を統括する総司令部として機能した。その後、2003年に欧州連合軍最高司令部は、作戦連合軍(Allied Command Operations、ACO)の指揮部門として改編され、世界規模での連合作戦を可能とした。活動範囲は拡大したが法的理由のため欧州を冠した伝統的名称はそのままであった。

1950年代初頭にアメリカ軍人がアメリカ欧州軍司令官と欧州連合軍最高司令官を兼務する決定についてはNATO諸国、特にアメリカ合衆国イギリスの間で議論が生じている。
歴史

朝鮮戦争の勃発はヨーロッパ防衛におけるソビエト連邦による攻撃の問題を提起するきっかけとなり、欧州連合軍が設立される事になる。初代最高司令官には第二次世界大戦における対独戦ノルマンディー上陸作戦とその後の進撃で功績を上げ人気のあったドワイト・D・アイゼンハワー将軍が選ばれた。

1950年12月19日に、北大西洋条約機構理事会は最初の最高司令官としてアイゼンハワー将軍の指名を発表する。バーナード・モントゴメリー元帥は副最高司令官に着任するため西欧防衛機関の職を後任者に譲り、1958年まで副最高司令官を務めた。1951年1月1日にパリに到着後すぐに、アイゼンハワー将軍は欧州連合軍の新組織を考案する立案者小グループを組織し直ちに職務にとりかかった。恒久的施設はパリ郊外西のキャンプ・ボルゾー(ロカンクール、現在は国立情報学自動制御研究所の施設がある)に置かれ、建設中はオテル・アストリア・パリで活動していた。

1950年12月にはアメリカ陸軍第7機甲師団、イギリス陸軍ライン軍団と第7機甲師団および第11機甲師団、さらに歩兵師団が駐独・駐墺フランス軍から3個師団、西ドイツ駐留独立ノルウェー旅団、デンマーク部隊、ベルギー部隊、トリエステおよびベルリン駐留米英軍がアイゼンハワー将軍の指揮下に置かれた。アイゼンハワーのパリ到着後4日目の1月5日にはイタリア国防大臣ランドルフォ・パッチャールディ(イタリア語版)と会談し、イタリア陸軍3個師団を「大西洋軍への最初の貢献」として提供され、アイゼンハワーの指揮下として受け入れる。

1951年4月2日、アイゼンハワー将軍は欧州連合軍最高司令部の下部機構である欧州連合軍の稼動命令書に署名する。同日、欧州連合軍隷下に北部連合軍と中央連合軍を稼動させる。続いて6月には南部連合軍が稼動する。1954年までに欧州連合軍は、北部欧州連合軍(オスロ)、中央欧州連合軍(フォンテーヌブロー)、南部欧州連合軍(ナポリ)、地中海連合軍(マルタ)が組織された。1952年5月当時の欧州連合軍最高司令部に並列する組織としては、大西洋連合軍最高司令部、海峡連合軍司令部、米・加地域計画作業部会がある[2]

当初の計画では、ソ連及び衛星諸国はNATOより優位性を確保出来ると確信したならば、優勢な地上部隊をもって侵攻してくると評価した。このように規定された内容の政策文章が、軍事委員会が作成したMC14/1であった。1956年時点を想定した戦略指針明記したMC14/1を1952年12月9日に採択した[2]。一連の行動をライン川ホランセ・アイセル川沿いに防衛線を確立するため、西ドイツ国内の多くは遅滞行動で一時放棄される。戦略連合空軍によるソ連と衛星国の経済産業基盤を破壊する間、通常戦力はこの線を維持するとされた。1962年2月に採用した柔軟反応戦略(英語版)の下で通常戦力の増強に着手した。1963年9月に軍事委員会はMC100/1を作成する、これは通常戦力を核対応に転じるまでの「仕掛け線」としての役割が否定された。これにより大量報復戦略への依存も否定された[2]

最終的には欧州連合軍最高司令部はアメリカの統制計画の下で、全てのイギリスの戦略型原子力潜水艦が割り当てられ、約7,000発の戦術核兵器がヨーロッパに配備にされた。
ベルギーへ移転

欧州連合軍の歴史の中で最も重要な事件はフランスのNATO軍事機構からの脱退であった。これにより、フランス国内に置かれていたNATO機関は移転を余儀なくされた。1966年2月、シャルル・ド・ゴール大統領は英米主導の指揮権の独占構造を拒絶する声明をする。その後まもなく、フランスは軍事機構からの脱退を明らかにし、1967年4月までにフランス国内からNATO関連施設は退去する必要にせまられた。

そしてベルギーはNATO政治機構および連合軍最高司令部の受入国となった。当時の最高司令官であったライマン・レムニッツァー将軍は最高司令部施設をNATO本部の近くに設置することを望んだ。しかしベルギー当局は、司令部施設は戦時には最重要目標となるためブリュッセルから少なくとも50km離れた場所に設置するように決定した。このためベルギー政府はカストー駐屯地を提供した。そして1967年3月30日にパリ郊外ロカンクールの司令部施設は閉鎖され、翌日にはカストーの新司令部の開設式典が挙行された。

イギリス地中海艦隊の縮小は、政治的および軍事的問題にからみ、さらにフランスの脱退により組織の再編成を余儀なくされた。1967年6月5日に地中海連合軍は解散される。代わりにナポリに所在する南部欧州連合軍に割り当てられた。
1970年代


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