欧州連合の歴史
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欧州連合の歴史(おうしゅうれんごうのれきし)では、欧州連合(EU)の沿革について概説する。EUは複数の欧州連合基本条約を根拠として形成され、拡大を繰り返してきた。イギリスの欧州連合離脱はあったものの、東欧への拡大が続き、当初6であった欧州連合加盟国の数は27にまで増えた。

1951年には欧州石炭鉄鋼共同体の設立を決めたパリ条約が、1957年には欧州経済共同体欧州原子力共同体を創設するためのローマ条約が署名された。欧州経済共同体と欧州原子力共同体は1993年に発足した欧州連合の一部となっている。
1945年以前Europa reginaゼバスティアン・ミュンスター『宇宙誌』)

欧州統合の前史としては、第一次世界大戦の惨禍を経て戦間期汎ヨーロッパ主義運動が勃興した。

第二次世界大戦下の1940年代初頭には、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国が、少数の中立国を除きヨーロッパ大陸の大半を制圧したが(ドイツによるヨーロッパ占領)、諸民族の対等な協力とは対極の、人種主義による過酷な支配であった。連合国軍の反撃により1945年5月にドイツは降伏した
1945年-1957年ハンブルク空襲の惨禍(1943年)
2つの世界大戦後で荒廃し、平和を確固たらんとする国際的結束を求める政治的機運が広まった。

第二次世界大戦終戦後、ドイツが再び脅威とならないようその重工業が一部解体され、また石炭産地であるザールラントシュレージエンが分離されたり、ルール地方が国際管理下に置かれたりした[1]

英国の戦時指導者であったウィンストン・チャーチルは1946年、「鉄のカーテン」演説でソビエト連邦陣営との冷戦への備えを呼び掛けた。一方でヨーロッパ合衆国構想を唱えたことは反響を呼び、1949年には初の汎ヨーロッパ機関である欧州評議会が設立された。その翌年の1950年5月9日、フランス外相ロベール・シューマンは、ヨーロッパの石炭と鉄鋼という、戦争で用いられる兵器の製造に欠かせない2つの素材に関する産業を統合することを目的とした共同体の設立を趣旨とする、いわゆるシューマン宣言を発した。

シューマンの声明に基づいて、1951年にフランス、イタリアベルギーオランダルクセンブルク西ドイツ欧州石炭鉄鋼共同体を設立するパリ条約に署名した。条約署名の翌年に発足した欧州石炭鉄鋼共同体はルール国際機関の機能を引き継ぎ、またドイツに対する工業生産の制限を緩和した。また欧州石炭鉄鋼共同体の発足で設置された最高機関と共同総会は、それぞれのちに欧州委員会欧州議会となっていく。最高機関の委員長にはジャン・モネが、共同総会の議長にはポール=アンリ・スパークがそれぞれ就いた。

1955年の住民投票で、ザール保護領を「ヨーロッパ領」とする案は否決された。この案では、ザールを西欧同盟の閣僚理事会に対して責任を負う長官の監督下に置くこととしていた。

欧州防衛共同体欧州政治共同体の設立構想が失敗したことを受け、各国の指導者はメッシーナ会議でスパーク委員会の設置を決めた。委員会がまとめたスパーク報告書は1956年5月29-30日のヴェネツィア会議で承認され、会議では政府間協議を開くことを決めた。単一市場と原子力での協力に関する政府間協議は経済統合に焦点をあわせ、1957年には参加国間で欧州経済共同体欧州原子力共同体の設立をうたったローマ条約が署名された[2]
1958年-1972年 3つの共同体

欧州石炭鉄鋼共同体に加えて新たに2つの共同体が発足したが、これら3共同体は裁判所と共同総会を共有していた。また新しい2共同体の政策執行機関は、欧州石炭鉄鋼共同体の「最高機関」とは異なり、「委員会」とされた。欧州経済共同体はヴァルター・ハルシュタインが、欧州原子力共同体ルイ・アルマン、エティエンヌ・イルシュがそれぞれ委員長を務めた。欧州原子力共同体はヨーロッパの原子力エネルギー部門の統合を、欧州経済共同体は加盟国間での関税同盟の開拓を担った[2][3][4]

1960年代はフランスが共同体の超国家的な権能を抑えようとする動きを見せたり、イギリスの共同体への加盟を拒んだりした。ところが1965年に3つの共同体の間で運営機関を統合することで合意に至ったことで統合条約がベルギーの首都ブリュッセルで署名され、1967年7月1日に欧州諸共同体と呼ばれる体制が発足した[5]。3共同体の政策執行機関となった欧州委員会の初代委員長にはジャン・レイが就任した。
1973年-1993年 拡大とドロールの登場ド・ゴールが拒み続けたことで第1次拡大には時間がかかった。

幾度にもわたる協議が重ねられ、またフランス大統領が交替したことのちの1973年1月1日、デンマークアイルランド、そしてイギリスはようやく欧州諸共同体への加盟を果たした。この出来事はのちに欧州連合の主要な政策課題となる欧州連合の拡大の第一歩となった[6]。EMS欧州通貨制度が1979年に制定され、域内固定相場制で域外に対して変動相場制を取った。また、域内相場をECU平価2.25%以内の変動枠にした。

1979年、直接普通選挙による初めての欧州議会議員選挙が実施された。この選挙で410人の欧州議会議員が選出され、また互選によってシモーヌ・ヴェイユが初の女性欧州議会議長に就任した[7]

1981年1月1日には第2次拡大として、申請から6年を経たギリシャが加盟する。1985年にはデンマークから自治権を得たグリーンランドが住民投票で共同体からの離脱を決定するが、1986年1月1日の第3次拡大で、1977年に申請していたスペインポルトガルが加盟した[8]1984年にはイタリアの欧州議会議員アルティエロ・スピネッリの作成した欧州連合設立条約草案が欧州議会で可決させたことは大きな後押しとなった[9]ベルリンの壁崩壊
鉄のカーテンが取り払われたことで東ドイツが共同体に加わった。

ジャック・ドロールが欧州委員会委員長に就任すると、その直後の1986年には欧州旗が各機関で使用されることになった。


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