欧州戦線における終戦_(第二次世界大戦)
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ドイツの降伏を受けて群集にVサインを掲げるウィンストン・チャーチル(ロンドン、1945年5月8日)

この項目では第二次世界大戦の欧州戦線における終戦を記述する。
イタリアの終戦第148歩兵師団(英語版)の降伏についてブラジル派遣軍(英語版)と交渉するオットー・フレッター=ピコ(英語版)中将(1945年4月29日

1945年4月にイタリアの戦いは最終局面を迎え、各地にパルチザンが蜂起するなど、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国(RSI)はほぼ崩壊状態にあった。共和ファシスト党書記(党首)アレッサンドロ・パヴォリーニ(英語版)は、テリナ渓谷北側のソンドリオに拠点を移して要塞線を築き(バルテル・ライン)、あくまで抵抗する事を提案したが、すでにテリナ渓谷はパルチザンの手に落ちていた上に、軍も消極的であった[1]ベニート・ムッソリーニはイタリア本位の解決を目指すとして、4月16日に政府機能をサロからミラノに移すと発表した。駐RSIドイツ大使ルドルフ・ラーン(ドイツ語版)は制止したが、ドイツの影響下から逃れたいムッソリーニは聞き入れず、4月18日にミラノに移った[2]。一方でドイツの親衛隊及び警察高級指導者カール・ヴォルフ親衛隊大将は、駐イタリアドイツ軍、すなわちC軍集団を降伏させるべくアメリカ合衆国の情報機関OSSスイス支局長アレン・ウェルシュ・ダレスと連絡を取っていたが、交渉は停滞していた(クロスワード作戦またはサンライズ作戦(英語版))。

4月23日に連合軍がポー川を突破し、勢いづいたパルチザン組織「北イタリア国民解放委員会(CLANI)」は、ミラノのアルフレード・イルデフォンソ・シュスター(英語版)枢機卿に、4月25日までにドイツ軍の降伏がない限り、全土で武装蜂起を行うと通告した[3]。4月25日には、CLANIの代表とムッソリーニら政府の代表が枢機卿館で会談し、CLANI側は2時間後の即時降伏を要求した。連合軍もミラノに迫っていたため、ムッソリーニらは回答期限を迎える前にスイス国境に近いコモを目指して逃走した[4]。コモに到着したムッソリーニは、スイスへの亡命を希望し、町長を通じて連合軍に伝えたが、ダレスはヴォルフSS大将のみ連行するよう伝えた[5]。しかし、コモからスイスへの道もすでにパルチザンの手に落ちており、進退窮まったムッソリーニは、4月27日にドイツ大使ラーンがいるメラーノに向かって出発したが、パルチザンによってコモ湖付近で捕らえられ、翌28日に即決裁判によって処刑され(ベニート・ムッソリーニの死参照)、国防相ロドルフォ・グラツィアーニ元帥と空軍総司令官ルッジェーロ・ボノミ(イタリア語版)准将もコモで降伏し、RSIは消滅した。

ミラノのC軍集団司令部は、連合軍との降伏交渉を再開し、4月29日に5月2日正午(グリニッジ標準時)を期限とする降伏が合意された[6]。西方総軍司令官アルベルト・ケッセルリンク元帥は、独断で降伏を決めたとしてC軍集団司令官ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ大将を罷免し、G軍集団司令官フリードリヒ・シュルツ(英語版)大将を新司令官に任命した。しかしC軍集団参謀長ハンス・レッティガー大将は、シュルツ大将を軟禁し、C軍集団指揮下の第10軍第14軍に停戦を命令した。しかし両軍司令官が強硬手段に反対したため、レッティガー大将はシュルツ大将を解放して、説得する方針に切り替えた。シュルツ大将はドイツ新政府の抗戦方針を聞いていたため降伏に慎重であったが、連合軍司令部 (ヨーロッパ戦線)(英語版)のハロルド・アレクサンダー元帥から、C軍集団が合意どおり降伏するか、一時間以内に回答を求める通告が行われた。これを受けて第10軍と第14軍は独断で降伏し、5月2日午前4時30分にはヴォルフSS大将の説得を受けたケッセルリンク元帥も、C軍集団の降伏に同意した[7]。5月4日には正式にC軍集団の降伏が行われ、イタリア戦線における戦いは終結した。
ドイツの降伏ランスで調印されたドイツ軍の降伏文書。詳細は「ドイツの降伏文書(英語版)」を参照

ベルリンの戦いの末期に当たる、1945年4月30日ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラー総統地下壕で自殺した(アドルフ・ヒトラーの死)。海軍総司令官カール・デーニッツ元帥が大統領に指名され、新たな政府を組織した(フレンスブルク政府)。デーニッツは連合軍への降伏は不可避であると考えていたが、できるだけ赤軍ではなく米英に将兵を降伏させたいと考えていた[8]。このため、デーニッツは各軍の降伏タイミングを熟考していた。5月2日にはC軍集団の降伏を決断したケッセルリンク元帥が、E軍集団とG軍集団の降伏をデーニッツに求めたが、赤軍に近いとして降伏を拒絶している[7]

一方で各軍の降伏は相次ぎ、5月2日にはヴァイクセル軍集団指揮下の第3装甲軍第21軍、5月3日には第12軍が降伏した。これを受けてデーニッツもG軍集団を降伏させるようケッセルリンクに伝えた。

5月4日は「西部戦線降伏の日」となり、ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク海軍大将がオランダデンマーク・北ドイツの全艦艇が無条件降伏し、5月5日午前8時(英国夏時間)に停戦する文書に調印した。この際フリーデブルク大将と会見したイギリス軍のバーナード・モントゴメリー元帥は、ソ連戦線内のドイツ軍将兵が米英軍に投降する事は認めないが、投降してきた捕虜をソ連に引き渡す事はないと告げた。デーニッツはこれを米英が対ソ連のためにドイツ軍を必要としている証拠だと考えた[9]。そして米英軍に対し、ドイツ軍の全面降伏が困難なので個別降伏が可能になるよう交渉した。

5月5日にはG軍集団が正式に降伏したが、アイゼンハワーはドイツの西部戦線での個別降伏は受け入れがたいものとして、5月5日午後、フリーデブルクに対して、即座の無条件降伏とドイツ軍の各部隊は現在位置にとどまって、兵器を連合軍に引き渡すよう要求した[8]5月6日、デーニッツはドイツ国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル大将をランスにあった連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)に派遣し、ドイツ軍将兵を米英戦線に降伏させるための交渉に当たらせた。「もっともタフな折衝家」と論評されたヨードルの交渉の結果、スミスはドイツ側へ48時間の猶予を与えることに合意した[10][11]


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