櫻間伴馬
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櫻間伴馬(左陣)

櫻間 伴馬(さくらま ばんま、1836年1月6日天保6年11月18日) - 1917年大正6年)6月24日)は、シテ方金春流能楽師1911年(明治44年)以降は櫻間 左陣を名乗る。

明治維新後低迷を続ける能楽界にあって、熊本出身の一地方役者ながら、その卓抜した技で観客の喝采を博した。能楽復興の立役者として、初世梅若実16世宝生九郎とともに「明治の三名人」の一角に数えられる。子に櫻間弓川がいる。
生涯
生い立ち

1835年(天保6年)、熊本の中職人町(現在の熊本市)にあった新座舞台で、櫻間家の長男として生を受ける[1]。父は熊本藩に仕える金春流能役者・櫻間右陣(三角紋理)、母は美加子。弟に金記、林太郎がいる。

櫻間家は代々藤崎八旛宮に奉仕すると同時に、喜多流の友枝家とともに、熊本藩のお抱えとして能役者を勤める家柄であった(後述)。そして友枝家の座を「本座」と呼ぶのに対し、櫻間家の方は「新座」と称された。役者同士はそうでもなかったが、本座と新座の贔屓筋はお互い仲が悪く、対抗意識が強かった[2]

父・右陣は、櫻間家の代々の名が「左陣」であったのを敢えて「右陣」と名乗るなど、かなりの変わり者であった[3]。羽二重の着物に紫縮緬の羽織という、当時の熊本としてはかなり派手な服装を常用し、その格好のまま漁に出て投網も打てば、雨が降り出しても「先のほうも降っている」と傘もささずのんびり歩いていた、という話が伝わっている[4]。それでいて優れた舞い手でもあり、右の頬に大きな痣が目立っていたが、ひとたび舞えば誰もそれが気にならなかったという[5]

1841年(天保12年)、藤崎八旛宮祭礼で初シテとして「経政」を勤める[1]

青年時代の伴馬は美男役者と評判で、楽屋に落とした彼の元結いの切れ端を、奥女中たちが取り合っては、それを守り袋に入れて大切にしたと言われる[6]恋文を届けられることもしばしばで、「花のようなる伴馬様」と記された手紙を、ずっと後になって、弟子の高瀬寿美之が伴馬の部屋で見つけたという話がある[7]
江戸修業

1856年(安政3年)、21歳で、細川家家老の八代城主・松井佐渡守に伴われ、修業のため江戸に上る。出立の際には親類が総出で見送りに来、伴馬も「修業が成就しなければ再び故郷の土はふまない」と覚悟しての旅立ちであった[8]。この時は1年で熊本に戻ったが、父・右陣がコレラで死去した1858年(安政5年)、藩主・細川斉護の勧めで再度出府、以後1861年(文久元年)まで滞在した[1]

江戸で伴馬が師事したのは、73代金春流宗家・金春元照の弟子で、金春座の地謡方であった中村平蔵であった。平蔵についてはその来歴が詳らかでないが、後に宝生九郎が「口は悪かつたが芸はよかつた」と語っているように、かなりの腕を持つ役者だったらしい[9]。後に伴馬の弟・金記も、平蔵に師事している。

平蔵の稽古は厳しいもので、曲中に一句でも満足に謡えない部分があれば「十日や二十日一行も先へ進むことが出来ない事などは何時もの事」であり、「あまりの厳しさに情なくもあり、何うして謡つたらいいのか途方に暮れてポロポロ涙をこぼす事が幾度あつたか知れません」と、後年伴馬は追想している[10]。「是界」の稽古で突き飛ばされた時には、ぶつかった壁に中指がめり込んだという[11]。後に伴馬はその稽古の厳しさを繰り返し息子・弓川に語ったが、一応平蔵も細川家への気兼ねから、多少は手加減をしていたらしい[9]

伴馬は細川藩邸から平蔵の元に通っていたが、江戸滞在中に起こった桜田門外の変の際には、水戸側の浪士が藩邸に飛び込んでくる、という出来事に遭遇している[8]。緊迫する情勢の中、1861年(文久元年)に、伴馬は細川護久に従い熊本に帰る。
熊本時代

当時、熊本で行われていた能は、専らあてごとの多い写実的な(即ち芝居のような)芸であった[12]。その中に、伴馬は本格的な江戸風の芸を身につけて帰ってきた。そのため、江戸帰りの伴馬の能を見た熊本の人々は、「伴馬は江戸へ行って能が下がった」と揃って嘆いたが、逆に本座の大夫で伴馬の良きライバルだった友枝三郎だけは「いや、あれが本当の能だ」とその実力を認めた[8]

当時、熊本を初め、八代・川尾・長崎臼杵竹田といった豊肥各地では、非常に盛んに能楽が行われていた。伴馬も大名家での演能、また神事能への出演の他に、自ら日数能を主催し、毎回大変な盛況を博していた[13]

江戸幕府が倒れた1867年(慶応3年)、伴馬は32歳であった。幕府・大名からの扶持で生活していた能役者たちは、維新によりその多くが零落、能の道を離れるものも少なくなかった。後に伴馬とともに「三名人」として並び称される初世梅若実など、ごく一部の役者が地道な活動を続けたものの、同じく「三名人」の一人とされる宝生九郎でさえ、農家暮らしを余儀なくされるという有様であった。

伴馬はそんな情況の中、熊本を中心に活発な演能活動を続けた。前述の通り元より一帯は能が盛んであり、また維新以後本座・新座間の対抗意識がこれまで以上に激しくなったことも、かえって伴馬を芸に打ち込ませる要因となった[14]。熊本、あるいは竹田などでたびたび日数能が催され、伴馬は1日に2番舞うこともあった[15]。当時の熊本での舞台の数は東京の3倍以上だったといわれ[16]、伴馬の生涯1500番あまりに及んだ舞台のうち、その多くはこの熊本時代のものだったと見られる[15]

このように充実した活躍を続けていた伴馬だったが、1877年(明治10年)、西南戦争に遭遇する。熊本も兵火に巻き込まれ、櫻間家の舞台も焼けてしまったため、伴馬は弟・金記とともに、装束や面を背負えるだけ背負って、熊本から2、3里離れた村まで避難した[15]。以後しばらく、菓子屋で生計を立てることを余儀なくされるなど、伴馬にとって苦しい時期となった[15]
東京進出

1879年(明治12年)、旧主・細川護久の勧めを受け、45歳で伴馬は東京へ移住する[17]

上京した当初、伴馬は両国河原町辺りに住んだが、後に横山町に住居と稽古場を設けた。また小さな糸問屋と煙草屋も開き、伴馬の長女・梅がこの店を持ったが、これは能では暮らしていけなくなった時のための、護久の配慮だった[18]

1881年(明治14年)、華族を中心とした後援団体・能楽社により、芝能楽堂が創設される。「能楽復興のシンボル」[19]となったこの能楽堂の舞台披きに、伴馬は「加茂」(半能)で出演した。もっともこの時点では伴馬はまだ「一介の田舎役者」に過ぎず、扱いも決して大きなものではなかった[20]

伴馬の名を一躍知らしめたのは、1882年(明治15年)5月、芝能楽堂で舞った「邯鄲」である。折しもその前月、梅若実が同じく「邯鄲」を舞ったばかりであったが、伴馬はそれを凌ぐ巧みな技を披露した[20]

そして翌1883年(明治16年)4月、伴馬はやはり芝能楽堂で「道成寺」を舞った。この「道成寺」は高度な技術が要求される曲だが、中でもその見せ場となる鐘入りで、伴馬は「斜入」あるいは「舞込み」と呼ばれる特別な型を披露し、満座の喝采を浴びることとなった。

この鐘入りの場面は通常では、演者が舞台上に吊された鐘の下に来て、その場で鐘に両手をかけて飛び上がる、と同時に後見が鐘を支える綱を放し、演者は落ちてくる鐘に吸い込まれるようにその中に消える、といったものである[21]。しかし伴馬が披露したのは、通常より高く鐘を吊し、演者が一足離れた位置から回りながら飛び込んでくるのに合わせ、後見が勢いよく鐘を落とす、という、一歩間違えば怪我をしかねない[※ 1]難しい技であった[22]

この技の鮮やかさに、観客席の藤堂高潔[※ 2]などは躍り上がって喜んだといわれる[23]。また宝生九郎も、「櫻間の芸は本物である、地方で育つた能役者であれだけの人は古今を通じて出たことがない」と賞賛した[6]。以来、伴馬は梅若実、宝生九郎と並び立つ当代きっての名手として、その名声を確立することとなった[20]


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