檀家
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檀家制度(だんかせいど)とは、日本の仏教寺院(寺)が、それぞれの檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた、寺と檀家の関係をいう[1]寺請制度(てらうけせいど)、あるいは寺檀制度(じだんせいど)ともいう。江戸幕府の宗教統制政策から生まれた制度であり、祖先崇拝の側面を強く持つ[2]
概要[ソースを編集]

檀家とは「檀越(だんおつ)の家」という意味である。檀越とは梵語のダーナパティ(d?napati)の音写であり、寺やを援助する庇護者の意味である。例えば飛鳥時代において、蘇我氏秦氏といった有力な氏族豪族が檀越となって寺院(氏寺)を建立し、仏教諸宗派を保護した。ここで特に檀家という場合には、それまで有力者の信仰対象であった仏教が広く社会に浸透し、氏族単位が家単位になったということである。檀家という言葉自体は鎌倉時代には既に存在していたが、現在の意味合いになるのは荘園制の崩壊によって寺院の社会基盤が変化してからである[2][3]。そして江戸時代の宗教統制政策の一環として設けられた寺請制度が檀家制度の始まりである。

檀家は特定の寺院に所属し、葬祭供養の一切をその寺に任せ、布施を払う。この布施を梵語のダーナの音写で檀那(だんな)と呼び、檀家(檀越)が所属する寺院を檀那寺という[注釈 1]。その意味では、言葉の上では一般民衆である個々の檀家が寺院の経済的な支援者となる筈であった。しかし、寺請制度に端を発する檀家制度においては、寺院の権限は強く、檀家は寺院に人身支配されていたと呼べるほどの力関係が存在していた。寺院側は、常時の参詣や、年忌命日法要の施行などを檀家の義務と説き、他に寺院の改築費用や本山への上納金といった名目で経済的負担を檀家に強いた[2]。今日における彼岸の墓参りやお盆の法事は、檀家制度によって確立したといえる[2]

本末制度や他の幕府宗教政策もあって、寺院は社会的基盤を強固な物にすることに成功したが、一方で日本仏教の世俗化が進んだ[4]。寺請の主体となった末寺は本山への上納など寺門経営に勤しむようになり、日本の仏教信仰は形骸化していく。檀家を持たない寺院は現世利益を標榜することで信徒と布施を集めるようになり、檀家を持つ寺もまた祖先崇拝といった側面を強くしていった。いずれにせよ、このような寺院の強権的な立場、民間信仰祖霊信仰)とのより強い混合、また堕落は制度ができた当時から批判があり、それらは明治廃仏毀釈に繋がっていくことになる。

第二次世界大戦以降、寺院の権限はほとんど無いにせよ、檀家制度は残っている。いわゆる葬式仏教や、檀家制度によって確立した年忌法要、定期的な墓参りは日本に根付いており、葬儀や先祖の命日法要、の管理を自身の家の檀那寺に委託する例は多い。しかしながら、檀家が減っていることも事実であり、檀家制度に拠る寺院の経営は難しいものとなっている[2]

特に平成以降、少子高齢化が加速し、実家や墓を受け継ぐ子・孫を中心とした親族がいなくなる(無縁社会)、あるいは、いても疎遠だったり遠方に住んでおり帰省もままならなかったりする家が増えつつある。自分の没後などを見据えた終活の一環などとして、菩提寺に対して檀家からの離脱や、墓の移転・撤去(いわゆる「墓じまい」)を申し入れる人もいるが、拒否されたり、高額な離檀料(後述)を請求されたりするケースもある[5]
歴史[ソースを編集]
前史[ソースを編集]

仏教が伝来した飛鳥時代において、仏教は有力者の信仰対象となった。この時代に建立された寺院は、もっぱら檀越となった有力氏族が建立したものであり、これを氏寺と呼ぶ。例として、蘇我氏飛鳥寺秦氏広隆寺が挙げられる。氏寺は、当然のことながら自分たちを支援してくれる有力氏族のために葬祭供養を行った。この檀越が檀家の源流である。やがて時代が下がると旧仏教勢力の寺院は所領を持つようになり、荘園領主的な側面を帯びるようになる。有力寺院の主要な収入源は、布施(檀那)から荘園収入に変わる。政治的な権力・権威を持つようにもなり、檀越に依存しない寺門経営が行われるようになる。しかし、それも応仁の乱以降、荘園制の崩壊によって失われていくこととなる。それら旧仏教勢力に対し、新しく登場した宗派は一般民衆を対象とし、その勢力を広げる。その過程で、仏教は出家的なものから在家的なものへ移行していく。例えば臨済宗曹洞宗の禅語録は15世紀以降、坐禅関係から葬祭関係へと比重が逆転していき、この頃から仏教が先祖崇拝や「家」と結びついていったと考えられる。「檀家」という言葉自体は鎌倉時代には存在していたが、仏教がより「家」という概念と結びついていったのは、やはり応仁の乱以降である[3]

つまり、檀家制度の下地は、応仁の乱以降から、江戸時代に寺請制度が施行される約200年間の、荘園制が崩壊して郷村が成立、また広範な「家」の概念が成立した時期にできたといえる。この間に寺院(檀那寺)は、社会的・経済的基盤を荘園や特定の檀越、あるいは外護者から、一般民衆へと移しかえた[3]
禁教令と寺請制度[ソースを編集]詳細は「寺請制度」を参照

江戸幕府は、1612年(慶長17年)にキリスト教禁教令を出し、以後キリスト教徒の弾圧を進める。その際に、棄教した転びキリシタン寺請証文(寺手形)を書かせたのが、檀家制度の始まりである。元は棄教者を対象としていたが、次第にキリスト教徒ではないという証として広く民衆に寺請が行われるようになる。武士・町民・農民といった身分問わず特定の寺院に所属し(檀家になり)、寺院の住職は彼らが自らの檀家であるという証明として寺請証文を発行したのである[6][7]。これを寺請制度という。寺請制度は、事実上国民全員が仏教徒となることを義務付けるものであり、仏教を国教化するのに等しい政策であった。寺請を受けない(受けられない)とは、キリシタンのレッテルを貼られたり、無宿人として社会権利の一切を否定されたりすることに繋がった。また、後に仏教の中でも江戸幕府に従う事を拒否した不受不施派も寺請制度から外され、信徒は仏教徒でありながら弾圧の対象にされることになる。

これら寺請の任を背負ったのは、本末制度における末寺である。1659年(万治2年)や1662年(寛文2年)の幕法では、幕府はキリシタン改の役割の責任を檀那寺と定めている。後にはキリシタンと発覚した人物の親族の監視も、檀那寺の役割と定められた[6]。これら禁教政策にともなって、より檀那寺の権限は強化されていくことになった。

もっとも、寺請制度は世の中が平和になって人々が自分の死後の葬儀や供養のことを考えて菩提寺を求めるようになり、その状況の中で受け入れられた制度であったとする見方もある。例えば、現在の静岡県小山町にあたる地域に江戸時代存在していた32か所の寺院の由来を調べたところ、うち中世から続く寺院は1つのみで、8か所は中世の戦乱で一度は荒廃したものを他宗派の僧侶が再興したもの、他は全て慶長年間以降に創建された寺院であったとされている。また、別の研究では元禄9年(1696年)当時存在した6000か所の浄土宗寺院のうち、16世紀以降の創建が9割を占めていたとされている。こうした寺院の創建・再建には菩提寺になる寺を求める地元の人々の積極的な協力があったと推定され、寺請制度はその状況に上手く合う形で制度として定着していったとみられている[8]
檀家制度の確立[ソースを編集]

寺請制度や本末制度1631年の寺院の新寺建立禁止令などを通して、檀那寺は檀家を強く固定化することに成功する。檀家になるとは、すなわち経済的支援を強いられるということであり、寺院伽藍の新築・改築費用、講金、祠堂金、本山上納金など様々な名目で経済的負担を背負った。1687年の幕法は、檀家の責務を明示し、檀那寺への参詣や年忌法要のほか、寺への付け届けも義務とされている。1700年頃には寺院側も檀家に対してその責務を説くようになり、常時の参詣、年忌命日法要の施行、祖師忌、釈迦の誕生日(灌仏会)や涅槃日盂蘭盆会(お盆)春秋の彼岸の寺院参詣や墓参を挙げている。


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