橿原神宮
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橿原神宮

外拝殿と畝傍山
所在地奈良県橿原市久米町934
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度29分18秒 東経135度47分10秒 / 北緯34.48833度 東経135.78611度 / 34.48833; 135.78611 (橿原神宮)座標: 北緯34度29分18秒 東経135度47分10秒 / 北緯34.48833度 東経135.78611度 / 34.48833; 135.78611 (橿原神宮)
主祭神神武天皇
媛蹈鞴五十鈴媛命
社格等旧官幣大社
勅祭社
別表神社
創建1890年明治23年)
札所等神仏霊場巡拝の道第33番(奈良第20番)
例祭2月11日(紀元祭)
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橿原神宮と畝傍山周辺の空中写真。
画像中央畝傍山の南南東麓に橿原神宮。畝傍山北北東麓に見える正方形状の区画が神武天皇陵。1985年撮影の2枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 橿原神宮

橿原神宮(かしはらじんぐう)は、奈良県橿原市久米町にある神社。旧社格官幣大社勅祭社。現在は神社本庁別表神社畝傍山の麓にあり、神武天皇畝傍山東北陵の南にある。
概要

橿原神宮は、神武天皇の皇居であったとされる畝傍橿原宮の推定地に創建されている[1]
規模

約53万uの面積を有する[2]社務所に当たる組織は橿原神宮庁と呼ばれる[3]

正月三が日の参拝者数は101万人であり、県内最多の参拝者数を誇る(2016年時点)[4]

近代の創建ではあるが、奈良県内では春日大社と並んで初詣の参拝者数が多い神社である。他にも、勅使参向のもと紀元祭が行われる2月11日建国記念の日)や、神武天皇祭が行われる4月3日、および奉祝行事「春の神武祭」の開催期間にも多くの参拝者が訪れる。
周辺

畝傍山東麓は北側が神武天皇陵(畝傍山東北陵)、南側が橿原神宮となっている。県道125号を隔てて東側は奈良県立橿原公苑として整備されている。橿原公苑野球場橿原公苑陸上競技場が設置されており、各種スポーツ競技の奈良県予選決勝の舞台として利用されている。また、公苑に隣接する施設として奈良県立橿原考古学研究所および付属博物館がある。また、付近は神武天皇陵の他にも多数の陵墓が存在する。
歴史

1889年明治22年)、初代天皇である神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる橿原の地に、神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るための神宮を創建することを民間有志が請願し、感銘を受けた明治天皇によって1890年(明治23年)4月2日官幣大社として創建された。橿原神宮の設計は、東京帝国大学(現・東京大学)名誉教授を務めた伊東忠太によって行われた[5]4月22日には昭憲皇太后が参拝に訪れた[6]。建当初の名は橿原神社であったが、同年中に神宮号宣下を受けて橿原神宮に改称された[6]

1898年(明治31年)、日清戦争の勝利を記念して神武天皇陵が整備拡張された。1912年大正元年)には「橿原神宮第一次拡張計画」が発表され、工事(約70万円)のほとんどを寄付で賄うとした。1921年(大正10年)には衆議院議員の高草美代蔵が「第一次拡張のみでは完成には程遠いうえ、橿原神宮は伊勢神宮明治神宮と比べ規模が小さすぎる。神域の尊厳を保つためにも第二次拡張を行うべき」として建議案を提出し、第45回帝国議会にて満場一致で可決され、予算として527万円が与えられた。しかし2年後の1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって予算を割けない状況になり、最終的に国庫から支出されたのは33万円であった[6]

1940年昭和15年)には昭和天皇が橿原神宮に行幸し、秋には日本各地で紀元二千六百年奉祝式典が挙行された。この年の参拝者は約1000万人に達したという。

1948年昭和23年)、神社本庁別表神社に加列された。

2016年平成28年)、神武天皇二千六百年大祭が行われた[7]天皇(現:上皇明仁皇后(現:上皇后美智子が参列し、その際に銅鏡を贈る意向を示し、2018年(平成30年)に河相周夫侍従長から橿原神宮へ銅鏡「橿原の杜」と鏡箱が贈られた[8]
その他
橿原神宮と周辺環境

この地域の開発が進んだ際、元々周辺に存在していた村が「負傷醜ろうナル家屋ノ見下スコト」(奈良県行政文書『神苑会関係書類』)の不都合により、奈良県によって移転させられたという(高木博志『近代天皇制と古都』に詳しい)[9]
橿原神宮を描く切手

前述のように1940年(昭和15年)には紀元二千六百年記念行事が大々的に行われたが、当時の逓信省(現:日本郵政グループ)は「紀元二千六百年記念」の切手として同年の11月10日に20銭切手を発行した[10]。この額面は当時の国際郵便書状基本料金のための高額切手であった。
紀元2700年に向けた境内特別整備事業

紀元2700年に当たる2040年に向けて、境内の整備事業が行われている。主に文化殿や表参道周辺の整備が行われている[11]
境内

本殿(
重要文化財) - 安政2年(1855年)に建てられた京都御所賢所(内侍所)を1890年明治23年)に移築したもの[12]

幣殿

内拝殿

外院斎庭

儀式殿 - 1973年昭和48年)に第60回式年遷宮の際、伊勢神宮より移築された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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