橿原神宮前駅*
中央口
かしはらじんぐうまえ
Kashiharajingu-mae
橿原神宮前駅 駅舎
情報
用途駅舎
設計者村野藤吾建築事務所
施工大林組
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西口東口
橿原神宮前駅(かしはらじんぐうまええき)は、奈良県橿原市久米町にある、近畿日本鉄道(近鉄)の駅。駅長配置駅である。奈良県中南部、飛鳥地方における主要駅である。
中央口駅舎は初代新歌舞伎座の設計で有名な建築家・村野藤吾の設計。第1回近畿の駅百選選定駅。
乗り入れ路線
近畿日本鉄道
橿原線 - 駅番号はB42
南大阪線 - 駅番号はF42
吉野線 - 駅番号はF42
近鉄の駅ナンバリングは、京都駅 - 吉野駅・近鉄奈良駅・賢島駅のルートを基準に付番されるため、当駅を通る各路線の駅番号は京都駅からの通し番号になっており、南大阪線はF28 - F41が欠番となっている。
橿原線と南大阪線は当駅が終点、吉野線は当駅が起点であるが、このうち南大阪線と吉野線は直通運転を行なっており、一体的な運行形態となっている。後述の通り、橿原線は軌間が異なるため直通運転出来ない。 現駅北西の橿原神宮の前に大阪電気軌道畝傍線(広軌、現在の橿原線)の(旧)橿原神宮前駅(終点)があった。1923年(大正12年)12月[1]、狭軌の吉野鉄道は吉野口から北進して(旧)橿原神宮前駅に乗り入れた。1924年(大正13年)[1]、吉野鉄道は省線畝傍駅までさらに北東進し、吉野口・畝傍の双駅で省線と連絡するようになった。 一方、久米寺(寺院)の前の大阪鉄道(現在の南大阪線)線上には橿原神宮駅があり、そこから南東進して、吉野鉄道久米寺駅に乗り入れていた(現4 - 7番のりば)。その後、大阪電気軌道が吉野鉄道を吸収し、(旧)橿原神宮前 - 久米寺間を広狭軌併用の三線軌条に改造して、久米寺駅に乗り入れるようになった。 1940年(昭和15年)の皇紀2600年祭を控え、橿原神宮周辺整備の都市計画事業により[1]、前年に畝傍線を移設して新たに駅(現在の駅柿の葉寿司売り場と0 - 3番のりば、なお、現台車振替作業所の位置にも狭軌用ホームがあった)を新設した上で久米寺駅から改称し、(旧)橿原神宮前駅、橿原神宮駅は廃止された。この際に、橿原神宮駅駅と改称し、駅名に「駅」が含まれる珍しいケースになった[注 1]。1970年(昭和45年)には(新)橿原神宮前駅に改称され、列車内・駅構内でも「橿原神宮前」と呼ぶようになった。いまでも奈良交通バスのバス停は「橿原神宮駅」を使用している。なおこれとは別に、駅名と同じの「橿原神宮前」バス停が存在するが、駅からは離れた場所にある。
歴史
年表
1923年(大正12年)
3月21日:大阪電気軌道畝傍線(現在の橿原線)平端 - 橿原神宮前間延伸時に(旧)橿原神宮前駅開業[2]。当時、八木駅(現在の八木西口駅)以南は現在と異なるルートであった。
12月5日:吉野鉄道(現在の吉野線)の(旧)橿原神宮前 - 吉野口間が開業、大阪電気軌道の橿原神宮前駅に接続[3]。
1924年(大正13年)11月1日:吉野鉄道、省線桜井線畝傍駅への連絡線(のちの小房線。省線畝傍 - (旧)橿原神宮前間)を開業[3]。
1929年(昭和4年)
3月29日:大阪鉄道(現在の南大阪線)の古市 - 久米寺間が開業[3]。このとき大阪鉄道が橿原神宮駅を大和池尻(現在の橿原神宮西口)と久米寺の間に設置[3]。吉野鉄道が大阪鉄道との接続駅として現在の橿原神宮前駅の前身となる久米寺駅を設置。
8月1日:吉野鉄道を大阪電気軌道が買収、同社の吉野線とする[3]。
1930年(昭和5年)7月10日:吉野線の(旧)橿原神宮前 - 久米寺間を三線軌条化し、大阪電気軌道畝傍線の電車が久米寺駅に乗り入れて吉野線に接続をはかるようになる[3]。
1939年(昭和14年)
3月1日:吉野線の小房 - (旧)橿原神宮前間を、小房 - 久米寺の新線に切替。
7月28日:畝傍線の八木西口 - (旧)橿原神宮前間及び吉野線の(旧)橿原神宮前 - 久米寺間を廃止し、八木西口 - 畝傍御陵前 - 久米寺の新線に切替((旧)橿原神宮前駅を廃止し、神武御陵前駅は畝傍御陵前駅に改称のうえ新線上に移転)[4]。同時に、大阪電気軌道の久米寺駅を橿原神宮駅駅に改称し、新線部分を含めた西大寺(現在の大和西大寺) - 八木西口 - 橿原神宮駅を橿原線とする。省線畝傍駅への連絡線は畝傍御陵前駅で分岐するようになる(畝傍御陵前 - 橿原神宮駅間は並走区間の扱い)。
8月15日:大阪鉄道の橿原神宮駅を廃止[5][6]。
1940年(昭和15年)4月1日:大阪鉄道の久米寺駅を橿原神宮駅駅に改称。
1941年(昭和16年)
3月15日:大阪電気軌道が参宮急行電鉄と合併[3]。橿原線と吉野線は新発足した関西急行電鉄の路線となり、同社と大阪鉄道の駅となる。
6月:吉野線の畝傍 - 橿原神宮駅間を小房線と改称。
1943年(昭和18年)2月1日:関西急行鉄道が大阪鉄道を合併し、関急単独駅となる[3]。旧大阪鉄道線は天王寺線に改称。
1944年(昭和19年)6月1日:戦時統合により関西急行鉄道が南海鉄道(現在の南海電気鉄道)と合併し近畿日本鉄道に改組[3]。