橘諸兄
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 凡例橘 諸兄 / 葛城王
橘諸兄・『前賢故実』より
時代奈良時代
生誕天武天皇13年(684年
死没天平勝宝9歳[1]1月6日(757年1月30日)
別名井手左大臣、西院大臣
墓所京都府綴喜郡井手町南開
官位正一位左大臣
主君元明天皇元正天皇聖武天皇孝謙天皇
氏族橘朝臣
父母父:美努王、母:橘三千代
兄弟諸兄、佐為牟漏女王
藤原多比能藤原不比等の娘)
奈良麻呂、照夜の前
特記
事項初代橘氏長者
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橘 諸兄(たちばな の もろえ)は、奈良時代皇族公卿。初名は葛城王(葛木王)[2]で、臣籍降下して宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。官位正一位左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者
経歴

和銅3年(710年無位から従五位下直叙され、翌和銅4年(711年馬寮監に任ぜられる。元正朝では、霊亀3年(717年)従五位上、養老5年(721年正五位下、養老7年(723年)正五位上と順調に昇進する。

神亀元年(724年聖武天皇即位後間もなく従四位下に叙せられる。神亀6年(729年長屋王の変後に行われた3月の叙位にて正四位下に叙せられる[3]と、同年9月に左大弁に任ぜられ、天平3年(731年)諸官人の推挙により藤原宇合麻呂兄弟や多治比県守らとともに参議に任ぜられ公卿に列す。天平4年(732年従三位天平8年(736年)弟の佐為王と共に母・橘三千代氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗る[4]

天平9年(737年)4月から8月にかけて、天然痘の流行によって太政官の首班にあった右大臣藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原四兄弟をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去してしまい、9月には出仕できる主たる公卿は、参議鈴鹿王と橘諸兄のみとなった。そこで急遽、朝廷では鈴鹿王を知太政官事に、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命して応急的な体制を整えた。翌天平10年(738年)には諸兄は正三位右大臣に任ぜられ、一上として一躍太政官の中心的存在となる。これ以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄ムをブレインとして抜擢して、聖武天皇を補佐することになった。天平11年(739年)正月に諸兄は従二位に昇叙されるが、母の県犬養三千代の同族である県犬養石次を近々の参議登用含みで従四位下に昇叙させる。さらに同年4月にはこの石次に加えて、自派の官人である大野東人巨勢奈弖麻呂大伴牛養を参議に任じて、実態として橘諸兄政権を成立させた[5]

天平12年(740年)8月に大宰少弐藤原広嗣が、政権を批判した上で僧正・玄ムと右衛士督・下道真備を追放するよう上表を行う[6]。しかし実際には、国政を掌っていた諸兄への批判及び藤原氏による政権の回復を企図したものと想定される。9月に入り広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こすと(藤原広嗣の乱)、10月末に聖武天皇は伊勢国行幸する。さらに乱平定後も天皇平城京に戻らず、12月になると橘諸兄が自らの本拠地(山城国綴喜郡井手)にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われた。

天平15年(743年従一位左大臣に叙任され、天平感宝元年(749年)4月にはついに正一位に陞階。生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。また残りの5人のうち、2人は天皇の生母・外祖母であり、最後に生前叙位された三条実美は没する寸前であったため、純粋に官職を昇りつめて正一位の状態で政務にあたったのは藤原仲麻呂藤原永手と諸兄の史上3人に限られる。

しかし、同年8月に孝謙天皇が即位すると、国母光明皇后の威光を背景に、大納言紫微令藤原仲麻呂の発言力が増すようになる。これに先立って天平17年(745年)頃より諸兄の子息・奈良麻呂長屋王の遺児である黄文王を擁立して謀反の企図を始める[7]。この謀反の動きに対する諸兄の動向は明らかでないが、諸兄は仲麻呂の台頭に対抗せずに穏やかに処したとして、関与を否定さらには奈良麻呂の動きを押し止めたとするもの[8][9]、積極的な関与がありのちの讒言に繋がったとするものの双方の見方がある[10]。後者の立場からは、天平勝宝7歳(755年)に以下開催された諸兄による橘奈良麻呂の乱の関係者の邸宅での宴が決起の勧誘・意思の疎通・謀反の具体的計画策定の場であったとし[11]、それを裏付ける証拠として、後年、橘奈良麻呂の乱終結後に乱の未然防止を目的として官司に届け出のない官人の宴集が禁止されたこと[12]を挙げている[13]

5月11日:多治比国人[14]、5月18日:橘奈良麻呂邸[15]、11月28日:橘奈良麻呂邸[16]

同年11月の聖武上皇が病気で伏していた際に、酒の席で上皇について不敬の発言があり謀反の気配がある旨、側近の佐味宮守から讒言を受けてしまう[17]。これは、11月28日に行われた橘奈良麻呂邸での酒宴での発言を指すと想定されるが、上皇没後の皇嗣問題について語り合ったと考えられ[18]、前述の謀反に関して話が及び讒言に繋がった可能性もある[19]。この讒言については聖武上皇が取り合わなかったが、諸兄はこのことを知り翌天平勝宝8歳(756年)2月に辞職を申し出て致仕した。


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