凡例橘清友
時代奈良時代後期
生誕天平宝字2年(758年)
死没延暦8年(789年)
別名浄友
官位正五位上・内舎人、贈正一位・太政大臣
主君桓武天皇
氏族橘氏
父母父:橘奈良麻呂、
兄弟安麻呂、島田麻呂、清野、清友、入居
妻粟田小松泉子、田口氏の女
子氏人、弟氏、氏公、嘉智子、女子
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橘 清友(たちばな の きよとも)は、奈良時代後期の貴族・歌人。名は浄友とも書く。参議・橘奈良麻呂の子。仁明天皇の外祖父。官位は正五位上・内舎人、贈正一位・太政大臣。 天平宝字2年(758年)父・奈良麻呂が橘奈良麻呂の乱で処刑された直後に誕生する。 宝亀8年(777年)良家の子息でかつ容儀が逞しく立派であったため、若年ながら渤海使の接待を行うこととなる。その際、渤海大使の史都蒙は清友を見て、「あなたは骨相から見ると子孫は繁栄するが、あなた本人は32歳で厄があるでしょう」と言ったという。延暦5年(786年)内舎人となったが、3年後の延暦8年(789年)に史都蒙の予言通り、32歳で病により自邸で没した[1]。 平安時代に入り、弘仁6年(815年)に娘・嘉智子が嵯峨天皇の皇后に立てられた際に、清友は従三位の位階を贈られる[2]。天長10年(833年)には嘉智子所生の正良親王が即位(仁明天皇)したことから、その外祖父として正一位の贈位を受け、承和6年(839年)には太政大臣の官職が贈られている[3]。 勅撰歌人として、『古今和歌集』に1首が採録されている[4]。 また、堯智『古今和歌集陰名作者次第』では、古今和歌集の「読人知らず」の「君が代」の詠み人ではないかとしている。 若い頃より落ち着いて物事に動じない性格で、多くの書物を読み漁った。六尺二寸(188p)の長身で、眉目はまるで書いたようにはっきりしていた。また立ち居振る舞いも非常に立派であったという[1]。
経歴
人物
系譜
父:橘奈良麻呂
母:粟田人上の娘
妻:粟田小松泉子
七男:橘氏公(783-848)
妻:田口氏の女
女子:橘嘉智子(786-850) - 嵯峨天皇皇后、仁明天皇母
生母不明の子女
男子:橘氏人(?-845)
男子:橘弟氏(?-842)
女子:橘安万子(?-817) - 藤原三守室、贈従三位、典侍
脚注^ a b 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年5月5日条
^ 『日本後紀』弘仁6年7月13日条
^ 『続日本後紀』承和6年6月5日条
^ 『勅撰作者部類』
参考文献
黒板勝美編『尊卑分脈 第四篇』吉川弘文館、1958年
宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年