凡例橘永名
時代平安時代初期 - 中期
生誕宝亀11年(780年)
死没貞観8年5月10日(866年6月25日)
官位従三位・神祇伯
主君淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇→清和天皇
氏族橘氏
父母父:橘入居
兄弟永継、永名、逸勢、御井子、田村子
子氏子
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橘 永名(たちばな の ながな)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。右中弁・橘入居の四男。官位は従三位・神祇伯。 但馬掾・春宮少進を経て、天長2年(825年)従五位下・大蔵少輔次いで民部少輔に任ぜられる。翌天長3年(826年)春宮大進兼丹波権介に任ぜられ、再び皇太子・正良親王(のち仁明天皇)に仕える。のち、天長9年(832年)従五位上、天長10年(833年)3月の仁明天皇の即位に伴い正五位下、同年11月従四位下と淳和朝末から仁明朝初頭にかけて急速に昇進した。 仁明朝では、右衛門権佐・刑部大輔・内蔵頭・播磨守・右兵衛督を歴任し、承和8年(841年)従四位上に叙せられる。承和9年(842年)に承和の変が発生した際には右兵衛督の官職にあったが、弟・逸勢が謀反の疑いを受けたため、当時武官の官職を帯びていた一族の時枝(右衛門少尉)・三冬(右馬大允)と共に、自ら武器を解いて朝廷に提出する[1]。結局、永名は連座して解官の上で京外に追放される。 承和12年(845年)入京を許され、のち弾正大弼・神祇伯を経て、仁明朝末の嘉祥2年(849年)正四位下に叙せられる。当時としては長寿を保ち、清和朝の貞観2年(860年)には81歳にして従三位に叙せられ公卿に列した。 貞観8年(866年)5月10日薨去。享年87。最終官位は散位従三位。 『六国史』による。
経歴
官歴
弘仁年間末:但馬掾
天長元年(824年) 日付不詳:春宮少進
時期不詳:正六位上
天長2年(825年) 正月4日:従五位下。日付不詳:大蔵少輔。日付不詳:民部少輔
天長3年(826年) 日付不詳:春宮大進(春宮・正良親王)。日付不詳:兼丹波権介
時期不詳:右衛門権佐
天長9年(832年) 日付不詳:従五位上
天長10年(833年) 3月6日:正五位下。11月18日:従四位下。12月7日:刑部大輔
承和年間初:播磨守
承和3年(836年) 4月17日:内蔵頭
承和4年(837年) 12月27日:右兵衛督、播磨守如故
承和8年(841年) 11月20日:従四位上
承和9年(842年) 7月:解官、京外追放(承和の変連座)
承和12年(845年) 7月19日:聴入京
承和13年(846年) 9月14日:弾正大弼
承和14年(847年) 4月23日:神祇伯
嘉祥2年(849年) 11月24日:正四位下
嘉祥4年(851年) 4月1日:出居侍従
貞観2年(860年) 11月16日:従三位
系譜
父:橘入居[2]
母:不詳
妻:不詳
女子:橘氏子(淳和天皇女御)
脚注^ 『続日本後紀』承和9年7月20日条
^ 『日本三代実録』貞観8年5月10日
参考文献
森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年
森田悌『続日本後紀』(上下巻)、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年
武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 上巻』戎光祥出版、2009年