橘樹郡(たちばなぐん)は、神奈川県(武蔵国)にあった郡。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、概ね下記の区域にあたる。 行政区画として発足した当時に隣接していた郡は以下の通り。
郡域
横浜市
鶴見区、神奈川区の全域
西区の一部(同年に設置された横浜区に属した区域[1]を除く)
保土ケ谷区の一部(上星川、川島町以北および今井町を除く)
港北区の一部(新羽町、北新横浜、新吉田東、高田東、高田町以西を除く)
川崎市
川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区の全域
麻生区の一部(金程、高石、百合丘、東百合丘以東)
隣接していた郡
東京府 : 荏原郡
神奈川県 : 南多摩郡、北多摩郡、荏原郡、都筑郡、久良岐郡、鎌倉郡
原始
縄文時代
子母口貝塚(子母口公園、富士見台)が形成される。
神庭遺跡
弥生時代
梶ヶ谷神明社上遺跡が形成される。
影向寺・野川神明社
井田伊勢台遺跡(井田山)が形成される。
古代
古墳時代
橘樹郡の多摩川周辺各所に古墳が築造される(現在の川崎市多摩区、高津区、中原区の主に台地に点在する[2])。前期は南部周辺に方墳や円墳が、中後期は北部周辺に横穴墓の築造が増える傾向にある。
534年、武蔵国造の乱後に献上された4つの屯倉のうちの1つ橘花屯倉は、当郡の御宅郷付近(現在の神奈川県川崎市幸区北加瀬から同県の横浜市港北区日吉付近)と推測される。
飛鳥・奈良時代(7世紀以降)
橘樹郡衙跡碑(橘樹官衙正倉遺跡、千年伊勢山台北遺跡)影向寺(2005年4月9日撮影)
大和政権の統治下、律令制の下で国・郡(評)・郷の行政区画が整備される。この地域は武蔵国橘樹郡となった。
橘樹官衙遺跡群の発掘により、郡衙は影向寺(宮前区野川)から高津区千年(影向寺の東方400m)へ延びる台地上に配置されたと推定され、橘樹郡の政治中心地だった[3]。正倉と見られる千年伊勢山台北遺跡も見つかっている。
影向寺が創建された(橘樹郡の郡寺だった可能性が高く[3]、遺跡が発掘されている[4])。馬絹古墳が築造された。
当初は4つの郷(橘樹(たちばな)郷:影向寺一帯、高田郷:横浜市港北区の高田町一帯、御宅(みやけ)郷:加瀬白山古墳のある北加瀬・南加瀬一帯、県守(あがたもり)郷:津田山周辺)が置かれ、後に駅家郷(高津区末長周辺)が加わった[5](現在の地名への比定は高橋a2000, p.94-95)。
荏原郡との交通路は、古来の渡河地点の丸子の渡し(郡衙の東4km)で多摩川を渡った。
橘樹郡から武蔵国府(現在の府中市)へ繋がる府中街道が多摩川南岸の低地に整備された。橘樹郡の多摩川南岸の低地は穀倉地帯として開発され[6]、条里制区画の痕跡が残る。
奈良時代には都に通じる官道の東海道が郡衙の近くを通り(ほぼ現在の大山街道もしくは中原街道に沿う)、郡内には小高駅が置かれた。小高駅と大井駅(荏原郡)との間は古来通りに丸子の渡しで多摩川を渡った[7]。
足柄道(後の矢倉沢往還・大山街道)が官道として利用されはじめる。
中原街道が形成されはじめる。
中世
鎌倉時代
秩父平氏の流れをくみ源頼朝の御家人となった稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり、- 1205(元久 2)年)が、桝形城に拠点を構え、北部一帯を治めるようになる。なお、現在の川崎市北部地域は摂関家の荘園であり、その荘官として治めたともいわれる。この頃より江戸時代まで、橘樹郡北部は稲毛領(いなげりょう、または「稲毛荘」)と呼ばれるようになる。
現在の川崎市南部地域は河崎領(かわさきりょう)などと呼ばれており、秩父党および横山党の諸勢力が拠点を置く。
現在の鶴見区周辺は鶴岡八幡宮の社領であり、「鶴見郷」または「大山郷」と呼ばれる。
室町時代
後北条氏による所領の記録「小田原衆所領役帳」に、星川(橘樹郡・都筑郡、かつては久良岐郡に属したとも言われる)、仏向、程ヶ谷(保土ヶ谷)など当郡内の地名が記載されており、当時の当郡内は後北条氏の家臣により分割統治されていたと推定されている。
江戸時代
東海道が整備され、川崎宿、神奈川宿、保土ヶ谷宿が置かれる。
中原街道が東海道の脇往還として再整備される。
足柄道に沿って矢倉沢往還(大山街道)が整備され、二子・溝口宿が置かれる。
1597年(慶長2年) - 徳川家康の命により、小泉次大夫が二ヶ領用水の建設に着手。
1601年(慶長6年) - 東海道に神奈川宿、保土ヶ谷宿が置かれる。
1611年(慶長16年) - 二ヶ領用水完成。以降、橘樹郡北部(現在の鶴見区以北。稲毛領37村、川崎領23村、計二千町歩)は二ヶ領用水により潤されて新田開発が進み、「稲毛米」と呼ばれる上質な米を産した。また、ほぼ同時期に上流地域(現在の多摩区の一部)を潤す大丸用水が造られたと推定されており、二ヶ領用水と同様に新田開発に貢献する。