橘丸
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この項目では、1935年就航の東海汽船の貨客船について説明しています。

2014年就航の東海汽船の貨客船については「橘丸 (東海汽船・3代)」をご覧ください。

タンカーの同名船については「橘丸 (タンカー)」をご覧ください。

橘丸 (2代)
竣工時の本船
基本情報
船種フェリー
船籍 日本
所有者東京湾汽船
建造所三菱重工業神戸造船所
経歴
起工1934年10月22日[1]
進水1935年3月22日[1]
竣工1935年5月31日[1]
就航1935年
運航終了1973年1月4日
除籍1973年1月7日
最後相生湾へ回航後、九三商店で解体
要目
総トン数1,772 トン[2]
載貨重量243トン[2]
全長80.40 m[3]
垂線間長76.00 m[2]
型幅12.20 m[2]
型深さ5.50 m[2]
喫水2.76 m(空船平均)[2]
満載喫水3.68 m(満載平均)[2]
機関方式ディーゼル
主機関三菱ビッカース 無気噴油式一段減速装置付4サイクル8気筒 2基[2][3]
推進器2軸[2][3]
最大出力2,400馬力[2]
最大速力17.8ノット[2]
航海速力15.0ノット(竣工時)[2]
12.5ノット(戦後)[3]
旅客定員1,230名[2]
(戦後)1,314名および1,430名[3]
乗組員38名[2]
45名[3]
(戦後)43名[3]
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ウィキメディア・コモンズには、橘丸に関連するカテゴリがあります。

橘丸(たちばなまる)は、東京湾汽船(現在の東海汽船)が運航していた貨客船。本項目では1935年就航の2代目を取り扱う。初代は東京湾汽船が大正時代に建造し運航していた392トンの小型貨客船であった[4]目次

1 船歴

1.1 東京湾の女王

1.2 戦時体制

1.3 戦後


2 脚注

2.1 注釈

2.2 出典


3 参考文献

4 関連項目

5 外部リンク

船歴
東京湾の女王

設立当初は房総半島方面への航路しか有していなかった東京湾汽船だが、1907年(明治40年)に東京府命令航路として伊豆大島および伊豆諸島にも航路を開設する[4]。初期には100トン級、大正時代には最大で400トン弱の小型貨客船が主力を占めていたが[5]昭和時代に入り、歌曲「波浮の港」の大ヒットや三原山への相次ぐ投身自殺による「自殺の名所」化によって[6]、伊豆大島への観光客が大幅に増加した[7]。これに先立ち、東京湾汽船では旅客をメインとした貨客船である1929年(昭和4年)に「菊丸」(780トン)[注釈 1]を、1933年(昭和8年)には「葵丸」(938トン)を建造して観光客の増加に対応させていた[7]。しかし、「大島ブーム」を見て取った東京湾汽船では「葵丸」の姉妹船建造計画を大幅に見直し、「葵丸」の倍ある大型船を投入する事を決意した[7]

このような経緯で建造される事になった「橘丸」は、三菱重工業神戸造船所に建造が発注される[7]。「橘丸」の特徴としてはいわゆる流線型を上部構造に利用した最初の「流線型客船」であったが、当初は異なるデザインだった[8]。「大島ブーム」と同様に「流線型ブーム」を感じた東京湾汽船の専務は、「橘丸」を流線型客船にするよう要請する[8]。しかし、南波松太郎主任設計技師[8][9]の指導の下で基本設計がすでに終わっていたため、サロン船橋および煙突の各部に流線型を採用するに留まった[8]1935年(昭和10年)6月3日21時30分、「橘丸」は東京湾汽船の当時のターミナルである霊岸島から初の商業航海に出発し、木更津沖で時間調整の後、6月4日5時に元村沖、7時に下田港に到着した[10]。就航後は世間のみならず船舶ファンや日本商船界からも大いに注目を集め[11]、「東京湾の女王」という異名を授けられた[12]。しかし、大型ゆえに難問もあった。それらは主に「橘丸」が主因のものではなく、「橘丸」を迎えるインフラストラクチャー、すなわち港湾施設であるとか、世情に主因があった。港湾施設の面では、当時の下田港や伊豆大島の港湾施設は「橘丸」の接岸に対応できなかった。下田港では1937年(昭和12年)に岸壁が完成するまで[13]、伊豆大島では1940年(昭和15年)に岡田港が完成するまで[14]、ともに「橘丸」を沖合いに止めて交通船で往来していた[13]。世情の面では、想定したほど観光客の数が多くなく、既成船でも十分対応できる時期には運航を休止していた[13]。それに加えて、昭和12年に勃発した日中戦争により観光客の数はいっそう減る事となった。このため、「橘丸」は就航わずか2年足らずで休航することが多くなった[13]
戦時体制

「橘丸」は1938年(昭和13年)6月27日付で日本海軍に徴傭され、2日後の6月29日に呉鎮守府籍となる[15]呉海軍工廠において特設病院船としての改装工事を受けるが[13]、その塗装は戦時国際法の規定とは異なり、明灰色赤十字の標識を描いただけのものだった[16]。改装後はただちに揚子江へ赴き、傷病兵の収容に従事する[13]。しかし、7月29日に?陽湖にて中華民国軍[注釈 2]7機による空襲を受ける。爆弾自体は116ポンド(約50キロ)爆弾であったが、うち2発が「橘丸」への至近弾となり[17]、左舷部の破口からの浸水を止めきれず浅瀬に座礁の後横転してしまった。


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