?離国
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?離国(たくりこく、朝鮮語: ???)は、夫余の建国者である東明王が誕生した国である[1]。?離国は、夫余の北に位置するとされる[2]

内藤湖南は、?離国は、松花江支流に居住していたダウール族のことであると指摘している[3][4]
国名表記

?離国は史料により様々に表記される[5]

なお、夫余建国者の東明王の最も古い記録は、中国後漢王充の『論衡』である[5]

論衡』巻二・吉験篇では、「?離国」(たくりこく)とある。

三国志』巻三〇・魏書三〇・烏丸鮮卑東夷・夫餘所引『魏略』では、「?離之国」(こうりこく)とある。

後漢書』巻八五・東夷七五・夫餘、『北史』巻九四・列伝八二・百済では、「索離国」とある。

建国説話

三国志』巻三〇・魏書三〇・烏丸鮮卑東夷・夫餘所引『魏略』には以下の記述がある。昔北方有?離之國者,其王者侍婢有身,王欲殺之,婢云:「有氣如?子來下,我故有身。」後生子,王捐之於溷中,豬以喙嘘之,徙至馬閑,馬以氣嘘之,不死。王疑以爲天子也,乃令其母收畜之,名曰東明,常令牧馬。東明善射,王恐奪其國也,欲殺之。東明走,南至施掩水,以弓撃水,魚?浮爲橋,東明得度,魚?乃解散,追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。

昔、北夷の?離之国があり、王は侍女が妊娠したので殺そうとした。侍女は「以前、空にあった鶏の卵のような霊気が私に降りてきて、身ごもりました」と言い、王は騙された。その後、彼女は男子を生んだ。王が命じて豚小屋の中に放置させたが、豚が息を吹き掛けたので死ななかった。次に馬小屋に移させると、馬もまた息を吹き掛けた。それを王は神の仕業だと考え、母に引き取って養わせ、東明と名づけた。東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、凶暴だったため、王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、再び殺そうとした。東明は国を逃れ、南へ走り施掩水にやって来て、弓で川の水面を撃つと、魚や鼈が浮かび上がり、乗ることが出来た、そうして東明は夫余の地に至り、王となった。 ? 三国志、巻三〇.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。三國志/卷30#東夷

白鳥庫吉によれば、ここに登場する?離・索離はツングース語で「黒」の意義で、施掩・掩Dはツングース語アムールの對音で大河の意義であり、そして索離は、黒水部で松花江黒龍江と合流するところを中心としていた国で、河は黒龍江を指したものに相違ない、とする[6]。干志耿(ハルビン師範大学(中国語版))は、夫余の位置を吉林省農安県にあてた上で、その北側として、嫩江下流と松花江中流以北の地、すなわち松嫩平原に?離の住地があったとみて、黒竜江省肇源県の白金宝文化(中国語版)や、それが代表する文化類型が?離の文化であるとする[6]
解慕漱と?離国(ダウール族)との関係

紀元前239年解慕漱は熊心山において兵を起し、翌年に古列加王を追い出し、北夫余を建国した[7]。解慕漱は藁離国人であるといい、『北史』の索離国、『魏略』の?離国を指す[7]。「?離国人」とあるから、夫余人ではない。夫余(熊心山)に来て、夫余王を追い出し、北夫余の王になった。「解慕漱は密かに須臾(番朝鮮)と約束をして」とあるが、番朝鮮は箕子朝鮮の後裔であり、紀元前284年に追われて医巫閭山へ逃げてきたである[7]。壬戌五十七年,四月八日,解慕漱降于熊心山,起兵,其先?離國人也。癸亥五十八年,…遂棄位入山,修道登仙。於是五加共治國事六年。


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