橋田 壽賀子
2015年11月、文化功労者顕彰に際して公表された肖像写真
プロフィール
本名岩崎 壽賀子
誕生日 (1925-05-10) 1925年5月10日
出身地 日本統治下朝鮮・京城府
死没日 (2021-04-04) 2021年4月4日(95歳没)[1]
死没地 日本・静岡県熱海市[1]
血液型B型
活動期間1949年 - 2021年
主な作品
テレビドラマ『おんな太閤記』
『おしん[2]』
『いのち』
『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』
『春日局』
『橋田壽賀子ドラマ 渡る世間は鬼ばかり』
『おんなは度胸』
『春よ、来い』
『なるようになるさ。』シリーズ
『99年の愛?JAPANESE AMERICANS?』など
受賞
NHK放送文化賞:1979年(昭和54年)
菊池寛賞:1984年(昭和59年)
モンブラン国際文化賞:2000年(平成12年)など
その他
「橋田賞」創設者
紫綬褒章:1988年(昭和63年)、
勲三等瑞宝章:2004年(平成16年)、
文化功労者:2015年(平成27年)、
文化勲章:2020年(令和2年)、
従三位:2021年(令和3年)、
熱海市名誉市民:2021年(令和3年)
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橋田 壽賀子(はしだ すがこ、1925年〈大正14年〉5月10日 - 2021年〈令和3年〉4月4日[1])は、日本の脚本家、劇作家、タレントである。本名:岩崎 壽賀子(いわさき すがこ)[3](旧姓:橋田)。位階は従三位。静岡県熱海市名誉市民。
1949年(昭和24年)、松竹に入社し、脚本部に配属される。1964年(昭和39年)『袋を渡せば』でテレビドラマの脚本家デビュー[4][5][6]。同年、東芝日曜劇場のために執筆した『愛と死をみつめて』の脚本が話題となって以後、テレビドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送り出した。
代表作は『おんな太閤記』、『おしん』、『いのち』、『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』、『春日局』、『渡る世間は鬼ばかり』、『橋田壽賀子スペシャル 源氏物語 上の巻・下の巻(光源氏第1部・第2部)』、『おんなは度胸』、『春よ、来い』、『なるようになるさ。』シリーズ、『99年の愛?JAPANESE AMERICANS?』など。 日本統治時代の朝鮮・京城で1925年(大正14年)に生誕。勉学のため帰国するまでの9年間を朝鮮で過ごした。父親は、チタンを産出する鉱山と土産店を営んでおり、母も店に出て忙しく、「オモニ」と呼ばれていた近所の主婦が世話をした[7]。 大阪府立堺高等女學校卒業後、日本女子大学文学部国文学科入学。日本女子大3年生時、空襲で大学が閉鎖。大阪へ戻り海軍経理部へ勤めていた時に終戦後を迎える[8]。その後「新古今和歌集における<つ>と<ね>の研究」をテーマに卒業論文を執筆し、日本女子大学を卒業。 この後、東京大学を受験するも失敗。学者になる事を諦め同時に受験をしていた早稲田大学第二文学部国文科に入学、その後芸術科に転科の演劇専修に移り、中退。 女学校時代は文章が苦手だった。その当時、日本軍兵隊への慰問文がコンクールで入賞したこともあったが、それは母が壽賀子の名前を使って書いたものであった[9]。早稲田大学在学中には学生劇団「小羊座」に入って役者を務めたほか、久板栄二郎の脚本塾に通って演劇の執筆を始めた[9]。 1949年(昭和24年)、松竹に入社して脚本部所属となり、松竹最初の女性社員となった。最初の脚本の仕事は、1950年(昭和25年)公開の映画『長崎の鐘』(監督:大庭秀雄)における新藤兼人の手伝いであった[9]。初めて単独で脚本を執筆した作品は、1952年(昭和27年)公開の映画『郷愁』(監督:岩間鶴夫、主演:岸恵子)[10]である。 1959年(昭和34年)、秘書への異動を拒否して松竹を退職し、独立作家となる。ただし、それから3年間ほどはテレビ局へ原稿を売り込みに行っても採用されなかったため、小説や漫画の原作を書くなどした[10][注 1]。1964年、『袋を渡せば』で作家デビュー。同年、東芝日曜劇場『愛と死をみつめて』の脚本が話題となり、テレビドラマの脚本家として名を高めた。
経歴
翌年元日にNHKの大河ドラマ「春日局」の準備をしていたが岩崎の看病をしながら1年続くドラマの脚本を書き上げる自信がなく、橋田が石井に相談すると「いま番組から降りたら嘉一ちゃんは、自分ががんだって気づくかもしれないよ」と首を横に振った[3]。