橋本龍太郎
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日本政治家橋本 龍太郎はしもと りゅうたろう
内閣広報室より公表された肖像
生年月日 (1937-07-29) 1937年7月29日
出生地 日本 東京府東京市渋谷区
(現:東京都渋谷区)
没年月日 (2006-07-01) 2006年7月1日(68歳没)
死没地 日本 東京都新宿区国立国際医療研究センター
出身校慶應義塾大学法学部卒業
前職呉羽紡績従業員
所属政党自由民主党佐藤派田中派橋本派
称号正二位
大勲位菊花大綬章
法学士(慶應義塾大学・1960年
岡山県総社市名誉市民
剣道教士六段
配偶者妻・橋本久美子
子女橋本岳(次男)
親族加納久宜(義曽祖父)
中村雄次郎(義曽祖父)
阪谷芳郎(義曽祖父)
橋本卯太郎(祖父)
大野緑一郎(祖父)
若宮貞夫(義祖父)
加納久朗(義祖父)
中村貫之(義祖父)
橋本龍伍(父)
橋本大二郎(弟)
自見英子(義娘)
サイン
第82-83代 内閣総理大臣
内閣第1次橋本内閣
第2次橋本内閣
第2次橋本改造内閣
在任期間1996年1月11日 - 1998年7月30日
天皇上皇(明仁)
規制改革担当大臣
内閣第2次森改造内閣(中央省庁再編後)
在任期間2001年4月1日 - 2001年4月26日
沖縄及び北方対策担当大臣
内閣第2次森改造内閣(中央省庁再編後)
在任期間2001年1月6日 - 2001年4月26日
第42代 沖縄開発庁長官
内閣第2次森改造内閣(中央省庁再編前)
在任期間2000年12月5日 - 2001年1月6日
第93-94・103代 大蔵大臣
内閣第1次海部内閣
第2次海部内閣
第2次海部改造内閣第2次橋本改造内閣
在任期間1989年8月10日-1991年10月14日1998年1月28日 - 1998年1月30日(総理兼任)
その他の職歴
副総理
村山改造内閣
1995年10月2日 - 1996年1月11日
第57代 通商産業大臣
村山内閣、村山改造内閣)
1994年6月30日 - 1996年1月11日
第58代 運輸大臣
第3次中曽根内閣
1986年7月22日 - 1987年11月6日
第56代 厚生大臣
第1次大平内閣
1978年12月7日 - 1979年11月9日
衆議院議員
旧岡山2区→)
岡山4区
当選回数 14回
1963年11月21日 - 2005年8月8日
第17代 自由民主党総裁
1995年9月22日 - 1998年7月24日
第29代 自由民主党幹事長
(総裁:宇野宗佑
1989年6月 - 1989年8月
第39代 自由民主党政務調査会長
(総裁:河野洋平
1993年 - 1994年
自由民主党幹事長代理
(総裁:竹下登
1987年11月 - 1989年6月
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橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年昭和12年〉7月29日 - 2006年平成18年〉7月1日)は、日本政治家位階正二位勲等大勲位菊花大綬章学位法学士慶應義塾大学)。岡山県総社市名誉市民[1]剣道錬士六段

衆議院議員(14期)、厚生大臣第57代)、運輸大臣第58代)、大蔵大臣(第9394103代)、通商産業大臣第57代)、副総理村山改造内閣)、内閣総理大臣(第8283代)、沖縄開発庁長官第42代)、行政改革担当大臣初代)、沖縄及び北方対策担当大臣初代)、規制改革担当大臣初代)、自由民主党幹事長(第29代)、自由民主党政務調査会長自由民主党総裁(第17代)を歴任した。
来歴

初当選以来自由民主党に所属し、衆議院議員を14期にわたって務める。また第1次大平内閣厚生大臣に就任し、昭和2ケタ生まれで初めて入閣を果たしたのを皮切りに運輸大臣大蔵大臣などを歴任し、いわゆるニューリーダーの後を担う総裁候補と目されるようになった。

竹下派七奉行の一人であり、1990年代の日本の政界を代表する政治家である。ポマード頭と呼ばれた独特の髪型がトレードマーク。剣道教士六段の称号・段位を持つ。

1994年に発足した「自社さ連立政権」の村山内閣では通商産業大臣を務め、自由民主党総裁就任に伴って副総理を兼務し、1996年村山富市首相退陣に伴い、内閣総理大臣に就任する。

在任中は住宅金融専門会社問題(住専問題、第136回国会)や行財政改革に取り組み、外交面ではアメリカのクリントン大統領・ロシアのエリツィン大統領と親交を深める。第18回参議院議員通常選挙での自民党惨敗を受け引責辞任した後も、同期当選の小渕恵三首相の下で外交特別顧問に就任し、その後も第2次森改造内閣行政改革担当大臣沖縄開発庁長官を、また中央省庁再編後には規制改革担当大臣沖縄及び北方対策担当大臣を歴任。

2001年自由民主党総裁選挙に再起を期して出馬するが、小泉純一郎に敗れる。2005年に政界を引退し、地盤を次男の橋本岳に譲る。翌2006年に死去[2]。68歳没。
生涯
生い立ち

東京府東京市渋谷区(現:東京都渋谷区)に大蔵官僚橋本龍伍、春の長男として生まれた。母・春は警視総監朝鮮総督府政務総監などを歴任した大野緑一郎の長女であったが、中耳炎をこじらせて龍太郎を出産した5か月後に急死した。官僚である父・龍伍には転勤がつきものだったため、武家(旧:熊本藩士)の出である祖母の真都に育てられた[3]。なお、龍伍は戦後政界に進出し、吉田茂の側近となる[4]
学生時代

田園調布小学校に入る前の7歳の時に、継母・正を迎えた[5]

麻布中学受験の際、橋本の受験番号は“1073番”だったが一番違いの“1074番”に作家の安部譲二がいた。それが縁で仲良しになり、2人は中学3年間を通じて同じクラスだった[6]

麻布中学入学時から橋本は学校の勉強に全くついていけず、成績は常に圧倒的最下位だった。このことについて周囲は、政治家の息子なので橋本は裏口入学だ、と暗黙の了解事項として理解していた[7]

麻布中学時代の橋本龍太郎のニックネームは「サル」[7]

麻布中学時代、橋本龍太郎の試験の点数は殆ど0点ばかりだったにも関わらず麻布高校に進むと山岳部に所属した。


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