橋幸夫
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橋 幸夫
涙にさよならを』(1965年)
基本情報
出生名橋 幸男
別名風間 史郎
勅使原 煌
生誕 (1943-05-03) 1943年5月3日(80歳)
出身地 日本・東京都荒川区
学歴城西大学附属城西高等学校卒業[1]
ジャンル歌謡曲
職業俳優ミュージシャン
担当楽器歌
活動期間1960年 -
レーベルJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント
共同作業者舟木一夫
西郷輝彦
公式サイト橋幸夫公式サイト

橋 幸夫(はし ゆきお、(本名:橋 幸男(読み同じ)、1943年昭和18年〉5月3日 - )は、日本俳優ミュージシャン

舟木一夫西郷輝彦(2022年2月20日死去)とともに『御三家』と呼ばれている。血液型はA型。著書に認知症の実母の介護生活を綴った『お母さんは宇宙人』がある。

俳優の橋龍吾は息子、演歌歌手橋宏之(はしひろゆき)は甥にあたる。東京都荒川区出身。静岡県熱海市在住[2]
来歴

1943年5月3日、東京都荒川区に呉服屋の9人兄弟の末っ子として生まれた。ちなみに、「橋」という珍しい苗字は、先祖が代々滋賀県神主を務めていたことに由来するという[3]。学生時代は悪童でボクシングに熱中し、プロテストを勧められたこともあり、心配した母が遠藤実の歌謡教室に通わせたことが、歌の世界に入るきっかけとなった。

1960年7月5日に「潮来笠」でビクターレコード(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)からデビュー[4]、同曲で第2回日本レコード大賞新人賞を受賞し、『第11回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たす[注 1][5]。『紅白歌合戦』には第11回から1976年の第27回まで17回連続出場、通算19回出場した。後にデビューした舟木一夫西郷輝彦とともに「御三家」としてアイドル的な人気を集める。実はビクターからデビューする以前にコロムビアのオーディションに落ちており、もしコロムビアからデビューしていたら、舟木一夫という芸名になる予定であったと後に述べている[6][7][8]神戸芸能社で仕事をした時期もある。いつでも夢を」を吉永小百合とデュエット

1962年9月、吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」が発売。同曲は発売から「1か月で30万枚という驚異的な記録をたて(半年後の翌年5月に100万枚突破)」[9]る大ヒットとなり、第4回日本レコード大賞を受賞した。

1966年、「霧氷」で再び第8回日本レコード大賞を受賞。同賞ではいずれも史上初となる2度目の大賞受賞、新人賞と大賞の2冠を達成した(当時は最優秀新人賞と最優秀歌唱賞は存在しなかったため、主要な賞は新人賞と大賞のみだった)。また1964年には、邦楽にはじめてエレキサウンドを導入した『恋をするなら』をリリースし、その後『ゼッケンNO.1スタートだ』、『チェッ・チェッ・チェッ -涙にさよならを-』、『あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)』と一連のリズム歌謡を発表し、第7回日本レコード大賞企画賞を獲得している[10]。人気と実力を兼ね備えた若手ナンバーワン歌手と目され、映画にも多数出演した。

1963年5月12日、石川県金沢市でのコンサート中に軍刀を持った暴漢に襲われた(詳細は後述)。

御三家(橋幸夫・舟木一夫西郷輝彦)の時代はオリコンが発足しておらず、御三家には全盛時代のオリコン記録はないが、それでも1969年には「京都・神戸・銀座」がオリコンチャートでトップ10入りするヒットを記録。同年日本航空国際線スチュワーデスだった凡子(なみこ)夫人と搭乗飛行機内で知り合い、1970年に婚約。翌1971年1月に結婚し、長女・長男(橋龍吾)をもうけた。凡子夫人もエッセイストやタレントとして芸能活動を行い、1982年4月から1985年3月までフジテレビワイドショーワイドワイドフジ』の司会を担当したほか、講演活動などを行った[11]。夫婦での共著もある。

1971年発売の「子連れ狼」は、元々は劇画のイメージソングだったが、テレビドラマ『子連れ狼』第3部の主題歌になったことで、お茶の間にも浸透。同じくトップ10入りするヒットとなり、第14回日本レコード大賞(大衆賞)、日本歌謡大賞特別賞他を受賞した。

デビューから10年余を過ぎて、佐川急便の出資を受けレコード会社「リバスター音産」を立ち上げ副社長に就任したが、8年後に諸事情で頓挫した[12]。リバスター音産時代の1983年には「今夜は離さない」のヒットで日本有線大賞特別賞を受賞している。

1980年前後に巻き起こった漫才ブームの時期、ザ・ぼんちぼんちおさむが橋幸夫のものまねを頻繁に披露。歌手としてはやや低迷していた橋にもスポットが当たった。ぼんちおさむが橋の真似をする時のポーズ「あれ?」を、1981年に橋本人がサンヨー食品テレビCMで演じ、逆パロディとして話題になった。


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