橋川文三
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1960年頃

橋川 文三(はしかわ ぶんそう/ぶんぞう[1]1922年1月1日 - 1983年12月17日)は、日本政治学者評論家弘文堂社員、元明治大学政治経済学部教授。専門は日本政治思想史
概歴橋川文三のサイン(1960年)

長崎県上県郡峰村(現・対馬市)の生まれ。父祖の地は広島県。橋川家は、代々対馬の海産物や木炭などを広島まで運ぶ商いをしていた。文三3歳の時、父親の故郷・広島県安芸郡仁保村(現・広島市南区仁保)に一家で帰郷。安芸郡海田町などで育つ。青崎尋常小学校(現・広島市立青崎小学校)、広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属高等学校)を経て上京、第一高等学校文科乙類に入学。文芸部に所属。1942年卒業[2]

同年、東京帝国大学法学部入学。在学中勤労動員で1945年6月から、郷里の広島食糧事務所に長期出張。原爆投下の3日前に農林省の採用試験のため上京、被爆を逃れた。同年9月、東京帝国大学卒業。

後に丸山真男のゼミで近代日本政治思想史の方法を学んだが、その分析の角度も思想もまったく異なる。丸山の正攻法とは異なった「野戦攻城」を信条としていた。

潮流社の雑誌『潮流』編集者のち弘文堂勤務[3]日本共産党は、1950年1月に党員が10万5千人とピークを迎えたが、橋川は、1949年1月の総選挙で共産党が躍進した前後に共産党に入党したことになる[4]。橋川は、編集部員だった『潮流』では「編集部員としてまともに働くには、党員とならずにはおられない空気が生じていた」と述べている[5]。しかし、1950年に弘文堂編集部に転職、共産党と疎遠となり、1951年結核を罹患、やがて党籍が自然消滅した[6]

明治大学講師・助教授を経て、1970年より教授[3]。この間、1959年わだつみ会常任理事、1962年には竹内好らの「中国の会」にも参加[3]

「中国の会」は、尾崎秀樹が普通社主宰で1960年ごろに立ち上げ、野原四郎竹内好、橋川、安藤彦太郎新島淳良今井清一らをメンバーとした[7]

保田與重郎日本浪曼派は、第二次世界大戦中に青年の心を捉えたが、戦後は黙殺されていた。橋川は1960年に、『日本浪曼派批判序説』を刊行し、その意味を問い直した。また戦後しばらく、天皇制ファシズム批判と共に断罪されていた右翼農本主義者らの思想の検証・再評価をおこなった。

三島由紀夫は橋川の文体・方法に着目し、精神史としての伝記の執筆を依頼した(『現代知識人の条件』所収の「三島由紀夫伝」(初出は文藝春秋「日本文学全集 三島由紀夫」)。だが程なく三島の『文化防衛論』をきっかけに「中央公論」誌で論争を行っている。

1983年横浜市の自宅で脳梗塞により急死、享年61。橋川家の墓所は広島市南区向洋に建つ。
著書

『日本浪曼派批判序説』(
未來社、1960年、増補版1965年、新版2009年ほか)。講談社文芸文庫(初版を文庫化)、1998年

『歴史と体験?近代日本精神史覚書』(春秋社、1964年、増補版1968年)

『現代知識人の条件』(徳間書店、1967年/弓立社、1974年)

『近代日本政治思想の諸相』(未來社、1968年、新版1995年ほか)

『ナショナリズム―その神話と論理』(紀伊國屋新書、1968年)紀伊國屋書店、1978年、復刻版1994年、新装版2005年/ちくま学芸文庫、2015年、解説渡辺京二

『政治と文学の辺境』(冬樹社、1970年)。評論集

『橋川文三雑感集』 未來社(全3巻)

1 歴史と感情(1973年、新版1983年)、2 歴史と思想(1973年、新版1983年)、3 歴史と人間(1983年)


『順逆の思想?脱亜論以後』(勁草書房、1973年)

『黄禍物語』(筑摩書房、1976年)。岩波現代文庫、2000年、解説山内昌之

『標的周辺』(弓立社、1977年)。


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