樺山氏
本姓秦忌寸流惟宗朝臣島津庶流[1](称:清和源氏)
家祖樺山資久
樺山氏(かばやまし)は、日本の氏族の一つで、薩摩国島津氏の庶流。
目次
1 経歴
2 歴代当主
3 略系図
4 脚注
5 参考文献
経歴で、日向国三股院は庄内の樺山(現・宮崎県北諸県郡三股町樺山)ならびに早水寺柱を領して「樺山氏」を称したのが始まり。
2代の音久は野々美谷城に住み、領域を接する北原氏ならびに肥後相良氏(その頃は日向庄内にも飛び地があった)と争い、西嶽・下河内を領した。しかし大永元年(1521年)、 7代・広久(別名は長久)のときに大隅国の堅利55町・小浜24町、臼崎・持松などに領地替えとなり、小浜の生別府(おいのびゅう、現・鹿児島県霧島市隼人町小浜)に住むようになった。また、この広久の頃より樺山氏は、島津忠良・貴久父子に従うようになり、広久の嫡男で 8代の善久は忠良の次女である御隅と縁組した。
8代の善久の頃、本田薫親との抗争により生別府を奪われたが、善久は武勇に優れており、これを追い落として奪還に成功している。また、善久は貴久およびその嫡子である16代島津義久の治世に多大に貢献した。
子孫は江戸時代以降、嫡流は藺牟田(現・鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田)を領して一所持(2170石)、また13代・久高の次男・久盈を祖とする「伊織樺山家」は寄合衆の家格となる。また樺山姓は直別支流であることから、正徳年間以降は士分以下や他家の奉公人が称することは許されず、さらに庶流は特別の場合を除いて音堅氏と改めさせられた(明治3年(1870年)より樺山への復姓が許される)。偏諱は、一所持家と寄合衆の嫡男のみ「久」の字が許され、それ以外は「資」の字とされた。
歴代当主
樺山資久(島津忠宗の 5男)
樺山音久
樺山教宗
樺山教久(別名は孝久)
樺山満久
樺山長久
樺山広久(別名は信久)
樺山善久(別名は幸久)
樺山忠副
樺山忠助(善久の次男。忠副が早世したため家督。)
樺山規久
樺山忠正(別名は忠征)
樺山久高(忠助の次男。忠正が早世したため家督)
樺山久守
樺山久辰
樺山久尚(養子[2]。島津忠恒の14男)
樺山久広(養子。島津忠仍の嫡男で旧名は島津忠昌、および東郷昌重)
樺山久清
樺山久福(別名は久満)
樺山忠郷(別名は久教・忠陽)
樺山久初(別名は久堅・忠智)
略系図
太字は当主。実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻。[ ]は、その氏の祖を意味する。
島津忠宗 [ヘルプ] この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。
貞久[和泉氏]
和泉忠氏[佐多氏]
佐多忠光[新納氏]
新納時久[樺山氏]
樺山資久1[北郷氏]
北郷資忠[石坂氏]
石坂久泰
音久2
教宗3信翁梅厳興久[池尻氏]
池尻惟音
教久4知音知教[外城氏]
外城久泰忠次正寧資春
満久5音平土持将宗
長久6薫尚
広久7久秋[宮丸氏]
宮丸久形喜冠龍慶宮丸久任
善久8 御隅
(島津忠良娘)豊満丸
忠副9忠助10久増
規久11久高13久如
鶴丸忠正12久守14[伊織樺山家]
久盈久明久興
久辰15忠則
久尚16久行権之頭久成
久広17久道久治
久清18忠重久重久信
久福19久章
忠郷20資門久治
久初21資武資親
脚注
^ a b 太田 1934, p. 1679.
^ 太田 1934, p. 1680.
参考文献