この項目では、樺太島と、日本統治下の歴史について説明しています。旧ソ連・ロシア統治下の歴史については「サハリン州」をご覧ください。
「サハリン島」はこの項目へ転送されています。アントン・チェーホフの著作については「サハリン島 (ルポルタージュ)」をご覧ください。
樺太島
所在地北樺太: ロシア
南樺太(北緯50度以南): 帰属未定(実効支配: ロシア)
所在海域オホーツク海、日本海
座標北緯45度54分 - 北緯54度20分
東経141度38分 - 東経144度45分
面積72,492 km²
最高標高1,609 m
最高峰ロパチン山
最大都市ユジノサハリンスク
(旧豊原市)
OpenStreetMap
樺太(からふと)またはサハリン(ロシア語: Сахалин)は、ユーラシア東方、オホーツク海の南西部にある島。広義の日本列島に含まれる。南北約948km、東西約160kmで南北に細長く、面積は72,492km2で、北海道(78,073km2)よりやや小さい。樺太島(からふととう)、サハリン島(サハリンとう)ともいう。日本が実効支配していた頃は樺太という名称以外ではサガレンが一般的に用いられていた。
樺太は、北部と南部でそれぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度線以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。 近世以前、樺太にはアイヌ、ウィルタ、ニヴフなどの先住民が居住しており、主権国家の支配は及んでいなかった。 近代以降、樺太の南に隣接する日本と、北西に隣接するロシアとが競って樺太への領土拡張を求めて植民を進め、多くの日本人とロシア人が樺太へ移住するようになった。 1855年(安政2年)の日露和親条約では樺太には明確な国境が設けられず、日本とロシアとが混住する土地のままとされた。 1875年(明治5年)の樺太千島交換条約によって、以前から日本領であった北方領土にくわえて千島列島(得撫島から占守島)を日本領とする代わりに、樺太の全土がロシア領と定められた。 1905年(明治38年)から1945年(昭和20年)までは、北緯50度線を境に、樺太の南半分(南樺太)を「樺太(カラフト)」として日本が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリン(ロシア語:Сахалин)」としてロシア及びソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された[1]。 第二次世界大戦末期、沖縄県における沖縄戦に続いて、日本本土(内地)最後の市街戦が行われた地である(1945年8月の樺太の戦い)。 戦後はソビエト連邦及びロシア連邦が樺太南部も実効支配している。人口約50万人で最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約20万人。日本名: 豊原)。現在、サハリンプロジェクトが進められている。領有権や領土問題については、#領土問題の項を参照 「からふと」の名は、一説にはアイヌ語でこの島を「カムイ・カ?・プ?・ヤ・モシ? 」(kamuy kar put ya mosir) と呼んだ事に由来すると言う。[要出典]これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる[2]。尚、樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味するヤンケモシリと呼ばれ[3]、北海道アイヌ語ではカラプト Karapto と呼ばれる[4]。 古くは1646年(正保3年)に成立した松前藩の歴史書『新羅之記録』に「唐渡之嶋」として見え、正保日本図にも「からとの嶋」が描かれている。1669年(寛文9年)の史料では「からふと」(「奉言上覚」『津軽一統志』)「からふとの島」(『蝦夷蜂起注進書』)という表記が確認できる[5]。1700年(元禄13年)の『松前島郷帳』には「からと嶋」とある。1704年(宝永元年)に蝦夷地へ渡った正光空念の史料では「からふと」「からふと嶋」という表記が多いものの、「唐ふとう嶋」「からふとふしま」「からとのしま」といった表記も見られる[6]。
概要
名称