樺太アイヌ(サハリンアイヌ)ブロニスワフ・ピウスツキが撮影した樺太アイヌ
言語
樺太アイヌ語、ロシア語、日本語
宗教
自然崇拝、一部神道、日本の仏教またはチベット仏教、ロシア正教会の信仰
関連する民族
北海道アイヌ、千島アイヌ、ウィルタ、ニヴフ
歌い踊る樺太アイヌ女性。布をリング状に巻いた頭飾りはヘトムイェと呼ばれ、樺太アイヌ特有のものである。1900年ころ撮影
樺太アイヌ(からふとアイヌ、アイヌ語: repunmosir-un-kuru)あるいはサハリンアイヌ(英語: Sakhalin Ainu)とは、かつて樺太南部に居住していたアイヌ系民族である。
北海道アイヌや千島アイヌとは異なる文化・伝統を有することで知られる。トンコリ(五弦の琴)やミイラ葬の風習は、アイヌ文化の中でも樺太アイヌにしか伝承されていない。1945年のソ連による樺太占領によって大多数の樺太アイヌは樺太を離れ、以後は北海道各所に散在している。
定義 樺太と周辺の地形
「樺太アイヌ」または「サハリンアイヌ」の名前で知られているものの、実際には樺太全域に居住していたわけではなく、特に樺太南部に集中して居住していた。これは樺太アイヌの祖先が先住民(オホーツク文化人=ニヴフ)を押しのける形で北海道から樺太へ進出していった歴史が関係していると考えられる。13世紀から近代に至るまで、樺太では樺太アイヌ、ウィルタ(アイヌからの呼称はオロッコ)、ニヴフ(アイヌからの呼称はスメレンクル)の3民族が共存していた。
また、樺太アイヌは前近代には北海道日本海沿海部にも居住していた形跡がある。河野広道の調査によると近代においても樺太アイヌと余市アイヌは墓標の形が同じであり、これは両者が同一の文化圏に属するグループに属することを示唆する。17世紀、シャクシャインの時代には余市・天塩・利尻・宗谷にかけてハチロウエモンらに率いられるアイヌ民族グループ(研究者はこれを「余市アイヌ」と呼称する)が存在したが、これも樺太アイヌに連なる集団ではないかと考えられている。
また、北海道アイヌによる樺太アイヌ認識について、蝦夷通辞の上原熊次郎は以下のような記述を残している。扠又、当所(静内)よりポロイヅミ(襟裳)辺までの蝦夷をまとめてメナシウンクルといふ。則、東のものといふ事。……北蝦夷地(樺太)、其外嶋々の夷人をレブンモシリウンクルといふ。則、離島のものといふ事なり……。 ? 上原熊次郎『蝦夷地名考并里程記』
この記述によると、北海道アイヌは樺太を中心として周辺の島々(礼文島・利尻島)に居住する者達を「レブンモシリウンクル(アイヌ語: repunmosir-un-kuru)」と呼ばれる一つのグループとして認識していたという。 アイヌ文化が成立する13世紀以前、樺太・北海道東北部・千島にはオホーツク文化人が居住しており、日本からは粛慎(ミシハセ)、中国からは流鬼と呼称されていた。 13世紀モンゴル帝国(後、大元ウルス)が勃興すると、アムール川河口付近に居住する「吉里迷」(ギレミ、オホーツク文化人に相当すると見られる)を従えるようになった。1264年にはギレミの民が「骨嵬(クイ)」や「亦里于(イリウ)」が攻めてくるとセチェン・カーン(世祖クビライ)に訴えたため、モンゴルは軍勢を樺太に派遣し、骨嵬(=アイヌ)を討伐した。この頃、北海道から樺太に進出したアイヌ系集団が樺太アイヌの祖先になったと考えられている。 江戸時代、樺太アイヌはアムール川流域の諸民族と交易を行い(山丹交易)、樺太アイヌがもたらす蝦夷錦などの物品はアイヌ社会・和人社会双方で珍重された。 1875年(明治8年)、日露間で千島・樺太交換条約が結ばれ、樺太アイヌと千島アイヌは3年の経過措置の後に居住地の国民とされることになった[1]。開拓使の長官黒田清隆は樺太アイヌを北海道に集団移住させることを決め、判官の松本十郎を現地に派遣した[1]。一応は移住希望者の募集が行われたものの、アイヌ側の反発は強く、「故郷の島影が見える宗谷ならば」という形で妥協したというのが実態のようである[1]。当時の南樺太に在住していた先住民族は、アイヌを主体に2372人だったが、そのうち108戸841人の樺太アイヌが宗谷へと移住した[1]。 ところが翌1876年(明治9年)、黒田は樺太アイヌを対雁(石狩川下流、旧豊平川との合流点付近)に再移住させるよう部下に命じた[2]。「宗谷ならば」という条件でアイヌ内部を取りまとめていた首長は突然の裏切りに憤死し、残った人々は銃で脅されながら強制移住させられたという[2]。
歴史詳細は「アイヌの歴史」を参照
近代以前
19世紀以降 樺太アイヌの住居(1912年、鳥居龍蔵撮影) 人物は左から木村チカマ、坪沢テル、影山チウカランケ、坪沢六助