横須賀空襲
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横須賀空襲(よこすかくうしゅう)[1][2]は、太平洋戦争の最中にアメリカ軍により行われた神奈川県横須賀市に対する空襲である[2]。横須賀は横浜市のように市街地を焼き払う絨毯爆撃を受けることはなかったが[1]横須賀軍港などの日本海軍の施設が1942年昭和17年)にはドーリットル空襲を受け、1945年(昭和20年)2月から8月にかけて艦載機による攻撃を受けた[2]
背景
横須賀市の状況詳細は「横須賀海軍施設ドック」および「東京湾要塞」を参照

神奈川県南東部の三浦半島に位置し東京湾に面する横須賀には、1853年(嘉永6)年に江戸幕府の勘定奉行・小栗忠順やフランス公使・レオン・ロッシュの主導で横須賀製鉄所が開設されると、明治維新後は明治政府に引き継がれ横須賀造船所、海軍造船所、横須賀海軍工廠と名称を変え軍艦の建造を担った[3]。 さらに1884年(明治17年)12月15日日本海軍横須賀鎮守府が設置されたことを契機に軍港都市として発展し[4][5]1907年(明治40年)2月15日に市制が施行された[6]1937年(昭和12年)からの第三次海軍軍備補充計画および1939年(昭和14年)からの第四次海軍軍備補充計画に伴う艦艇建造ラッシュにより市内は活況を見せたが[7]、戦局の悪化に伴い1944年(昭和19年)の空母「雲龍」と空母「信濃」を最後に大型艦の建造を停止[7]。急造型の駆逐艦や潜水艦や海防艦、特攻兵器の生産に転換した[7]

また、明治期以来、三浦半島は対岸の房総半島と共に東京湾防衛のための重要拠点と見做され[8]日本陸軍の手により堅固な砲台が建設されるなど要塞化(東京湾要塞)が進められた[8]太平洋戦争の時期には海防が中心の防衛思想に、航空機技術の発達に伴い防空の概念が加わり[9]、日本海軍の手により軍港周辺に防空砲台の配備が進められたが[9]1942年昭和17年)4月18日ドーリットル空襲以降はその傾向に拍車がかかり、三浦半島全体に防空砲台が増設された[10]1945年(昭和20年)、本土決戦が差し迫ると横須賀では相模湾からのアメリカ軍上陸に備えトーチカや洞窟砲台や狙撃陣地などの防御陣地の構築[9]回天海龍などの特攻兵器の配備が進められた[9]
アメリカ軍の状況

アメリカ軍は1944年(昭和19年)夏、日本の統治下にあったマリアナ諸島グアム島テニアン島サイパン島を相次いで攻略、各島にB-29専用の大きな飛行場を建設すると、これらの飛行場を拠点に同年11月から日本本土空襲を本格化させた[11]。マリアナ諸島を拠点としたアメリカ陸軍第20航空軍所属のB-29は航続距離の面で問題があり[12]、北緯39度以北の都市に関しては、硫黄島を前進基地としない限り効果的な攻撃は望めないとしていた[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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