横綱審議委員会
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横綱審議委員会(よこづなしんぎいいんかい)は、日本相撲協会諮問機関。略称は横審。
設置

横綱審議委員会は日本相撲協会定款第52条に基づき設置されている[1]

設置のきっかけとなったのは1950年初場所での三横綱の途中休場である[2]。この場所では3日目までに東冨士照國羽黒山の三横綱が途中休場し、前場所の前田山の引責引退もあり横綱批判が強烈になった[3]。場所中に協会は「2場所連続休場、負越しの場合は大関に転落」と決定したが、粗製濫造した協会が悪いと世間の反発をくらい、決定を取り消すことになった[注釈 1]。またこの頃、横綱免許の家元である吉田司家においても代替わりの騒動[注釈 2]が起きており、一時機能不全に陥っていた。そこで、横綱の権威を保つためにも、吉田司家に代わって相撲に造詣が深い有識者によって横綱を推薦してもらおうということとなった。こうして日本相撲協会の諮問機関として同年4月21日に横綱審議委員会が発足した[2][4]

初代委員長は好角家として有名だった元伯爵貴族院議員の酒井忠正[2]。発足直後の夏場所は、東富士が優勝、他の二人も11勝以上と、横綱の奮起を促すこととなった[3]。もっとも、1953年1月場所後に横綱に昇進した鏡里の場合は、協会が事前に横審に諮問せずに先に理事会を開いて横綱昇進を決めたために、横審が協会に対して苦言を呈し[5]、その後は理事会に先立って横審を開催するという手続きが取り決められた。
構成と運営

日本相撲協会定款第52条第3項に基づき委員会の構成及び運営に関し必要な事項は理事会が定めることとなっている[1]
構成

委員会は相撲を最も愛好し、相撲に深い理解を有する各方面の良識者をもって構成される、とされ[6]、その委員は好角家・有識者のうちから協会が委嘱する[7][4]。ただし、協会員は委員となることはできない[8]。かつては20年以上の任期を務める委員もいたが、1997年1月27日の会合で委員は1期2年、最大5期10年と決定された。以後委嘱された委員は10年で退任している。現行の委員の定数は15名以内、任期は1期2年、最長で5期10年までとなっている[4]。委員長は、委員の互選によって選出する[9][4]。委員長の任期は1期2年、最長で2期4年まで[4]

委員は無報酬[4]。稽古総見以外での観覧は各自切符を購入する。国技館では正面審判長のすぐ後ろに溜席があるため、テレビ放送にしばしば映る。近年の制度改正により、就任時期にかかわらず委員の改選時期は、委員本人が自己都合により途中退任する場合を除き任期完了となる年の1月であることが明確化されたようである。
定例会

横審の定例会は、毎本場所番付発表後と千秋楽後番付編成会議前に行うとされ[10]、通常毎場所千秋楽の翌日に開催される[4]。協会からの求めに応じて、委員会は横綱推薦、その他横綱に関する諸種の案件につき協会の諮問に答申し、又はその発議に基き進言する[11]。協会員も会議に出席し発言することができ[12]、理事長以下諸役員が出席する。

昭和期には特に議題が無ければ10分程度で定例会が終了することは珍しくなかったが、守屋委員長時代に議論の活性化を目的に定例会に先立ち30分間の「予備会」が導入されている。
取扱案件

横綱審議委員会は、横綱推薦、その他横綱に関する諸種の案件に関して、協会からの諮問へ答申したり、協会の発議に基づいて進言することを任とする(日本相撲協会定款第52条)[1]
横綱推薦

定例会における最大の議題は、横綱推薦にある。番付編成を所管する審判部が、ある力士を横綱に昇進させたいと判断した場合、審判部長は理事長に当該力士の横綱昇進について審議する臨時理事会の召集を要請し、理事長はこれを受けて横審に当該力士の横綱推薦について諮問する。

1958年(昭和33年)1月6日、横綱審議委員会は横綱推薦の内規を定め発表した[13]。諮問を受けた横審は内規に沿って当該力士が横綱にふさわしいか審査する。横審からの答申を受けて理事長は臨時理事会を招集し、理事会において横綱昇進について決議し、正式に昇進の可否を決定する。横審規則は当初、「理事会は横審の決議に拘束されない」としていたが、現行規則では理事会は横審の「決議を尊重する」となっている[14]。これまで理事会が横審の答申を覆した例はないため[注釈 3]、横審が横綱昇進の事実上の最終審査権を持っていると見られている。

しかしながら、横審が横綱昇進に関する全権を委任されているわけではない。理事長からの諮問がない(=審判部が横綱に昇進させないと判断した)場合、横審は当該力士を「横綱に推薦する」とする答申は行えない[注釈 4]。そのため、横綱昇進に値する成績を残したと見られる力士の横綱昇進が見送られた場合に横審が批判されることがあるが、理事長が諮問をしなければそもそも横審で審議できないのである。
横綱推薦の内規

現行の内規は次の通りである。
横綱に推薦する力士は
品格、力量が抜群であること。

大関で2場所連続優勝した力士を推薦することを原則とする。

第2項に準ずる好成績を挙げた力士を推薦する場合は、出席委員の3分の2以上の決議を必要とする。

品格については、日本相撲協会の確認に基づき審議する。

「品格」については、次の内規を基準として判断する。
横綱に推薦する力士の品格は、次の事項を基準としてその良否を判断して行う。

相撲に精進する気迫。

地位に対する責任感。

社会に対する責任感。

常識ある生活態度。

その他横綱として求められる事項。


品格の確認は、上記基準につき当該力士の日常生活の観察および師匠の証言等により判断して行う。

協会は、確認にあたり判断した状況を添えて、委員会に横綱推薦を諮問する。

内規制定前は目安となる基準はなく、実際1954年(昭和29年)5月場所で優勝し場所後に諮問されながら否決された栃錦のように、当時すでに4人横綱がいたために「強いて横綱を五人つくるほど圧倒的な成績ではない」[15]との番付上の理由で横綱昇進できなかった例がある。
内規の運用状況

第3項の「出席委員の3分の2以上の決議」は、内規発表当初は「全会一致」であった。また「準ずる好成績」とは、常識的に考えれば「準優勝」のことであるが、内規発表直後は具体的に何を指すか定めていなかった。このため、発表当初は以下のような混乱が生じた[13]ため、朝潮の事例を契機に現行の内規に改められた。

1958年(昭和33年)1月場所後の若乃花 - 内規発表直後の事例。この場所を優勝し、前場所も準優勝。大関時代の勝率も高く昇進は文句なしとみられたが、委員の一人(舟橋聖一)が原則論(2場所連続優勝)をかざして異議を唱えたため、「委員長一任」の形で「全会一致」をとり、横綱に推薦した。

1959年(昭和34年)3月場所後の朝汐 - 3場所前に優勝し、直前2場所は準優勝。「強い朝汐と弱い朝汐がいる」と評されたように成績にムラがあり、協会内でも異論があったため理事長は横審に下駄を預ける形で諮問したが、横審は「賛成と反対両論併記」という形で「全会一致」し、理事長に下駄を預け返した。結局朝汐の横綱昇進は認められた。

1961年(昭和36年)9月場所後の柏戸 - この場所大鵬との優勝決定戦に敗れ優勝同点。前場所、前々場所は準優勝ですらなく異論が出たが、「大鵬と柏戸は互角の実力があり、大鵬が横綱推薦なら大鵬と互角の柏戸も横綱に推薦されなければならない」との論法で柏戸の横綱推薦が決まった。

1964年(昭和39年)1月場所後の栃ノ海 - 前場所で優勝したもののこの場所は準優勝ですらなかった。この場所準優勝であった清國は平幕下位で横綱・大関との対戦がなく、「栃ノ海は実質的な準優勝である」と解釈、栃ノ海の横綱推薦が決まった。


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