横綱土俵入り
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横綱土俵入り(よこづなどひょういり)は、大相撲の最高位である横綱本場所幕内取組前や巡業先などで行う土俵入りである。片屋入り(かたやいり)とも呼ばれる[注釈 1]朝青龍明徳の横綱土俵入り(左が太刀持ち、右が露払い
概説

関取土俵入りは、十両および幕内は東方、西方がそれぞれ全員で行うが、横綱は幕内土俵入りの最後に単独の土俵入りを行う。
動作

幕内土俵入り(大関以下)が東西両方で終わった後に呼出が土俵を掃き清める。立呼出および立行司に先導され、純白の綱を腰に締めた横綱が、露払い(つゆはらい)と太刀持ち(たちもち)を従えて入場する。

土俵下で左から順に太刀持ち、横綱、露払いの順に並んで同時に土俵に上がり[注釈 2]、横綱は柏手を打つ。横綱が土俵中央に進み出て、正面を向いて再び柏手を打ち、右足→右足→左足の順に四股を踏む。この時観客から「よいしょ!」と掛け声が飛ぶ。土俵の上り口で再び柏手を打ち、全員一礼の後退場する。

以上一連の動作をその日出場している横綱全員が順番に行い、場内は中入りに入る。
露払いと太刀持ち

関脇以下の幕内力士の中から2名を選ぶ[注釈 3]。通常横綱と同じ相撲部屋の力士が優先され、同部屋でそろわない場合は、同じ一門、稀に一門外から選出する[注釈 4]

大銀杏が結えない場合は露払い・太刀持ちも務めることが出来ない[注釈 5]。ただし本場所以外では2013年6月に徳島県徳島市忌部神社で行われた白鵬の奉納土俵入りにおいて、当時大銀杏を結えなかった大喜鵬将大が露払いを務めている[1]

横綱、露払い、太刀持ちの三者の間で当日対戦がある場合、昭和期までは特に意識されることなくそのまま務めていたが、平成期以降は務めることができず、必然的に露払い、太刀持ちのいずれかを他の力士が担当することになる。
行司と呼出

行司は立行司である木村庄之助式守伊之助が務めるが、庄之助・伊之助が不在の場合には三役格行司が務める[注釈 6]。呼出では立呼出および副立呼出が務めるが、これについても不在の場合は三役呼出が務める[注釈 7]
順番


本場所で横綱が2人出場し立行司が庄之助・伊之助ともいる場合は、奇数日目は東横綱から、偶数日目は西横綱から先に登場し、行司はいずれの場合も庄之助→伊之助の順に登場する。

3横綱が在位・出場し、立行司・立呼出・副立呼出も揃っている場合は、2人までと異なり、以下のように順序が複雑となる(6日で一巡)。場所の終盤では東横綱同士の対戦があるため、それに伴う変更も生じる。

初日:横綱は東正横綱→西横綱→東2番目の横綱(以前の張出横綱)、行司は庄之助→伊之助→庄之助、呼出は三日目まで立呼出→副立呼出→立呼出

二日目:横綱は西横綱→東2番目の横綱→東正横綱、行司は庄之助→伊之助→伊之助

三日目:横綱は東2番目の横綱→東正横綱→西横綱、行司は庄之助→庄之助→伊之助

四日目:横綱は初日と同じ順序、行司は伊之助→庄之助→伊之助、呼出は五日目まで副立呼出→立呼出→副立呼出

五日目:横綱は二日目と同じ順序、行司は伊之助→庄之助→庄之助

六日目:横綱は三日目と同じ順序、行司は伊之助→伊之助→庄之助、呼出は副立呼出→副立呼出→立呼出

七日目?十一日目:初日?五日目と同じ。

十二日目:横綱は三日目・六日目と同じ順序、行司は六日目と同じ順序、呼出は立呼出→副立呼出→立呼出

十三日目:初日と同じ。

十四日目[注釈 8]:横綱は西横綱→東2番目の横綱が西から登場→東正横綱、行司は庄之助→庄之助→伊之助、呼出は立呼出→副立呼出→立呼出

千秋楽:横綱、行司、呼出とも初日と同じ。


雲龍型と不知火型雲龍型の土俵入り(朝青龍明徳)不知火型の土俵入り(白鵬翔)

横綱土俵入りの型は「雲龍型(うんりゅうがた)」と「不知火型(しらぬいがた)」の2種類が存在し、それぞれ雲龍久吉不知火光右衛門が行っていた土俵入りの型を起源として伝えられたものとされ、綱の締め方やせり上がりの型に差異があるのが特徴である。しかし実際には、四股を踏む前の掌を返す時の構えなどの細部で、指導する親方や横綱自身のアレンジなどによって動作が異なっており、完全には2つの型に集約できないのが実状である[注釈 9]10代二子山(初代若乃花)が大乃国康の土俵入り(どちらも雲龍型)の所作の確認中に「好きにやれ。横綱がやれば、それが横綱土俵入りだ」と助言したことがある[2]。また現在の「雲龍型」と「不知火型」は、その呼称が逆であるという指摘もある(後述参照)。

大まかな型の違いとしては1回目で四股を踏んだ後、せり上がりの時に右手のみを伸ばすのが雲龍型、両手を伸ばすのが不知火型である。雲龍型は梅ヶ谷藤太郎(2代)が、不知火型は太刀山峯右エ門がそれぞれ完成させたとされる[3]。また、綱の締め方は雲龍型は輪を1つ、不知火型は輪を2つで締めており、不知火型用の綱が重い。

型の選択は、横綱本人の希望よりも、所属する一門の別に左右されることが多い。出羽海一門高砂一門時津風一門は全員雲龍型、伊勢ヶ濱一門は全員不知火型を選択[注釈 10]二所ノ関一門は混在しているが雲龍型の例が多い[注釈 11]。横綱全体での選択率は雲龍型が高い(歴代横綱の土俵入りの型は「横綱一覧」を参照)。なお不知火型は13代鳴戸の死後白鵬翔が21代間垣の襲名まで10年に渡りこの型を選択した横綱の親方が9代伊勢ヶ濱しかおらず、型の断絶が危惧されていた。
「不知火型は短命」というジンクス

永らく、「不知火型の横綱は短命」というジンクスがあった。昭和から平成中期まで、一般に「大横綱」といわれる栃木山守也双葉山定次大鵬幸喜北の湖敏満千代の富士貢貴乃花光司朝青龍明徳はいずれも雲龍型横綱である。

一方、不知火型も型を完成させた太刀山は大正の大横綱で、次いで不知火型を選択した羽黒山政司も戦前から戦後にかけて長期間活躍していた。しかし、これに続く吉葉山潤之輔は、横綱昇進時33歳と高齢で休場がちとなり「悲運の横綱」と評され、さらに続く玉の海正洋の昇進時にある相撲記者が「不知火型は短命というジンクス」と表現[4]し、その玉の海が在位10場所で現役死したことで、以後不吉とされることが多くなってしまった。

その後も、琴櫻傑將が不知火型の保存の意味も込めて選択したとされるが、昇進時すでに33歳で在位9場所(引退場所を除くと8場所)、次いで不知火型を選択した隆の里俊英も昇進時31歳で在位15場所に終わった。双羽黒光司は23歳で昇進したがトラブルにより一度も幕内優勝を果たせず廃業(在位9場所、引退場所を除くと8場所)したため、不知火型のマイナス面をさらに強めてしまった。平成に入ってからも旭富士正也(在位9場所)と若乃花勝(在位11場所)が不知火型を継承するも、両力士揃って横綱昇進後2年足らずで引退するなど短命であった。

しかし、2007年に横綱昇進を果たした白鵬翔が旧・立浪一門として不知火型を選択し、横綱の在位は84場所、幕内最高優勝は45回、連勝も双葉山の69連勝に次ぐ63連勝を記録するなど横綱として数多の大相撲史に残る記録を更新する大横綱となった。次いで昇進した日馬富士公平(在位31場所)も優勝9回の実績を残すなど、不知火型=短命に終わるという流れを払拭した。

ただし、短命ジンクスには諸説ある(明治時代初期に活躍した大坂相撲の横綱・不知火光五郎があまりの強さから妬まれて毒殺され、その怨念があるという説など)。また、短命ジンクスに関係なく、玉の海が昇進するまでの間に「攻撃のみの不知火型の横綱土俵入りは邪道だ」という彦山光三の考え(後述)が広まったこともあって、正統派でないというレッテルを貼られた不知火型を選択する横綱が単に現れなかったとする説もある[3]
両方の型を経験した横綱

1人の横綱が雲龍型・不知火型両方を使い分けた例はないが、例外措置としてもう一方の型を選択した例が2例ある。

雲龍型の土俵入りをしていた北の富士勝昭1971年8月、A班・B班の2班体制で行われていた巡業においてA班の班長として参加していたが、B班班長として巡業を回っていた玉の海正洋虫垂炎による急病との報を受けて急遽B班の巡業先であった秋田県に合流し、土俵入りをすることになった。しかし、急な話だったために自らの雲龍型の綱が入った明荷が間に合わず、巡業先に置かれたままであった玉の海の不知火型の綱を締めて異例の形で不知火型の土俵入りを行った。北の富士は不知火型を選択しない高砂一門の横綱であり、一門としても唯一の不知火型経験者である。

不知火型の土俵入りをしていた白鵬は、2011年12月に双葉山生誕100周年を記念して双葉山の出身地である大分県宇佐市宇佐神宮で行われた奉納土俵入りで、双葉山に敬意を表するために、自分の不知火型用の綱を切り[注釈 12]、雲龍型用の長さに調節した横綱を締めて双葉山と同じ雲龍型で横綱土俵入りを行った[5][注釈 13]
その他の型

現在では「雲龍型」「不知火型」と呼ばれる2種類しか土俵入りの型が用いられていないが、古くはそれらとは異なる型が存在した。現在の型は明治後期(2代梅ヶ谷と太刀山)に確立したものとされているため、その前には古い型の土俵入りが存在したことは確実である。例えば、不知火光右衛門や大砲万右衛門は雲龍型に近いせり上がりを行なった後で両腕を広げ、常陸山は拍手の直後に両手を広げていた。

また、それ以前の映像がない時代の横綱については、実見することは不可能だが、現在見られるものとは全く異なるものと思われるものも少なくない。ただし、後継者が存在せず現在に伝わっていないため、推測の域を出ない。中でも不知火諾右衛門については、綱姿で両腕を広げた錦絵が常陸山型の土俵入り(柏手の直後に両手を広げる型)を認める根拠にされたともいわれ、今でいう不知火型の元祖だといわれたこともあったが、土俵入りのどの部分を描いたのか判明しておらず、錦絵のための特殊な構えの可能性もある(現在でも優勝額銅像において、本来は綱を締めて行なわない構えを用いることがある)ため、結論は出ていない。

横綱が番付に記載されない名誉称号とされていた時代には、綱の締め方も今とは異なっており、右に輪を作り綱の両端を左に出す(あるいはその左右逆)「片輪結び」となっていた。現在に残る錦絵によれば、江戸時代の横綱は全員この締め方で、現在のように正面の部分を太くした綱ではなく、正面と結び目でさほど太さの変わらない綱を用いていた。後に現在に見られる締め方が登場すると、片輪結びは用いられなくなり、大正の末に横綱免許を獲得した3代西ノ海嘉治郎がこの締め方を復活させているが、これを最後にこの型で締めた横綱はいない。

谷風・小野川の横綱土俵入りは、十両以上の集団土俵入りの四股踏みを原型に、吉田司家が見栄えよくアレンジしたものと言われている。四股を踏み前に右手を伸ばすのは、バランスを取るための自然な動作であったと見られている。決まった作法はなかったようであり、せり上がりもなかったと推測される。式守蝸牛が著した「相撲隠雲解」(寛政5年)には横綱土俵入りについて「土俵に出て手を二つ打つ。これは乾坤陰陽和順の意味である。次に足を三つ踏む。これは天地人の三才、如仁勇の三得に擬するもので、合わせて五つは、木火土金水、仁義礼知勇の五常に備える(後略)」と記述されており、当時は横綱土俵入りの基本が四股踏みと柏手にあったことが読み取れる[6]
横綱土俵入りの虚説

横綱土俵入りに関する説明について、報道あるいは花相撲における綱締め実演の解説などにおいて取り上げられる内容が、実際は歴史的に正しくないことがしばしば指摘されている。これらの虚説流布に影響を及ぼしたのが、戦前から戦後にかけて相撲故実の権威だった彦山光三である。
雲龍型と不知火型の呼称逆転

雲龍型は「せり上がりで左手を胸に当て右手を伸ばす」、不知火型は「せり上がりで両手を伸ばす」、という区別が戦前から定着しているが、この呼称があべこべと指摘されることがある。

モチーフである不知火光右衛門の土俵入りには好角家の丸上老人の証言があり、それによると「腰を落として左手をワキに当てて右手を伸ばしてせり上がる」という動作(現在の雲龍型)[注釈 14][7]をしている。ただし、その後に「立ったところで両手を広げた」という形を示しており、終わりの場面だけを見れば現在の「不知火型」ともなるため、全体の流れとしては現在に残る2つの型のどちらにも当てはまるものではなく、むしろこの他の型が存在していたことを裏付けている(前述参照)。左、不知火光右衛門の構えは現在の雲龍型。右、鬼面山谷五郎の構えは不知火型

しかし、1869年の撮影と推定される不知火と鬼面山谷五郎が並んで土俵入りのポーズを取っている写真では、不知火が左手を胸に当て右手を伸ばしており(雲龍型)、鬼面山が両手を広げている(不知火型)。鬼面山が実際に、最初から両手を広げてせり上がったかは不明だが、少なくとも不知火の方は前述の証言と、この写真からしても現在の「雲龍型」に近い型であったことがわかる。さらに、太刀山(不知火型)が横綱となった際に、16代木村庄之助から土俵入りを勧められ、「横綱雲龍、即ち後の追手風になった人の型です」と発言している[8][9][10]。また当時の相撲雑誌で、鳳谷五郎(雲龍型)については「梅ヶ谷同様不知火の型に則って」と報じられている。太刀山が横綱昇進を果たした直後の新聞や雑誌の報道ではほとんどが雲龍型と報じていたが、東京日日、やまとの2紙だけは、ある行司が適当に口走ったことを真偽も確かめずに「不知火光右衛門の型」と掲載した[8][11]

このように、太刀山本人が「雲龍型」とする発言とは関係のないところで「不知火型」という報道も為され、認識が一定しない事態を招くことになった。ところが彦山光三が戦前から戦後にかけて、太刀山と同じ型を継承した羽黒山(1941年)と吉葉山(1954年)について「不知火型」と断定し、新聞や雑誌に書き広めたのをきっかけとして、この呼称が定着していった[注釈 15]

この過程では相撲博物館初代館長の酒井忠正があべこべ説を提唱し、論争に発展した。彦山は、不知火光右衛門の師匠である不知火諾右衛門の錦絵に描かれた、両手を広げている姿が「せり上がり」であるから、これが「不知火型」であると主張。これに対し酒井は(前述のように)「せり上がって立った後に両手を広げる」例もあり、ゆえに錦絵の一場面のみでせり上がりの形を断定することはできない[注釈 16]と反論したが、彦山は緻密な論証を成さぬままに、不知火諾右衛門が初めから両手でせり上がったとする自説を押し通した。


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