横田永之助
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よこた えいのすけ
横田 永之助
生誕 (1872-06-03)
1872年6月3日
京都府京都市岡崎町(現在の左京区岡崎
死没 (1943-03-29) 1943年3月29日(70歳没)
国籍 日本
民族日本人
出身校東京高等商業学校
職業映画製作者映画興行師実業家
肩書き日本活動写真社長(1927年 - 1932年
京都商工会議所会頭
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横田 永之助(よこた えいのすけ、1872年6月3日(明治5年4月28日) - 1943年(昭和18年)3月29日)は、日本映画製作者映画興行師実業家

日本映画草創期において、日本で初めて輸入されたシネマトグラフの関東興行を行い、その後横田商会を設立して全国で活動写真の巡回興行をした。やがて劇映画の製作も行い、牧野省三尾上松之助を世に送った。横田商会が他社との合併で日活となると、創立時から同社重役となり、1927年(昭和2年)に社長に就任した。ほか京都商工会議所会頭なども歴任した[1]
経歴

1872年6月3日(明治5年4月28日)、京都府京都市岡崎町(現在の左京区岡崎)に、華頂宮の旧臣である横田摂津守豊成の3男として生まれる[2][3][4]。兄に実業家の横田万寿之助がいる。

13歳の時に上京し、杉浦重剛の称好塾に学ぶ[3]。この頃の同窓には巖谷小波江見水蔭大町桂月太田政弘らがいた[2]。その後東京高等商業学校(現一橋大学)予科に入学し、19歳の時に卒業して渡米。サンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジに入学し、3年間商業を学んだ後、22歳の時に帰国する[2][3]1893年(明治26年)、アメリカで開催されたシカゴ・コロンブス万国博覧会に京都府の出品委員として再渡米し、X光線が珍しがられていたのを見て、これを土産として持ち帰り、京阪地方で見世物として興行する[3]。その後、神戸の内外物産貿易に入社する。

1897年(明治30年)、兄の万寿之助の紹介で稲畑勝太郎と知り合い、彼が輸入したシネマトグラフの興行を引き受ける。万寿之助と稲畑は、1877年(明治10年)に京都府の海外留学生として共にフランスに渡り、それ以来別懇の間柄であった。関西ではすでに稲畑がシネマトグラフ興行を行っていたため、横田は同年2月末に上京して関東方面で興行を行う[5]。最初は錦輝館での興行を予定したが、ちょうど3月6日から新居商会によってヴァイタスコープによる興行が行われることになり、錦輝館の借用を断られた[6]。次に浅草公園第六区に天幕張りの小屋を設け、シネマトグラフ館と名付けて開場するも、急設の天幕張り会場では電燈会社が電力を供給してくれないため、再び会場を選定した結果、3月8日神田川上座を借りて興行を行う[7][8]。入場料を8銭均一にしたため興行の評判はよく、3月28日まで同座で打ち通した。川上座興行が終わると浅草の方とも話し合いがつき、仏国幻画協会を名乗り、浅草公園にバラック建てのシネマトグラフ館を建てて、4月1日から興行を始めた[6][9]

1900年(明治33年)、パリ万国博覧会で京都府の出品委員として派遣され、その際に発展をとげているフランスの映画事業に大きな衝撃を受けて、パテ社との間にフィルム購入の契約を結び、ゴーモン映写機と数種のフィルムを持ち帰って帰国する[3]。帰国第1回の興行は、同年8月16日から東京・新富座で行い、パリから持ち帰った英杜戦争やパリ万国博覧会の実況映画を公開した[10]。また、フランスから帰国する際、船上で知り合った当時の第1師団参謀長・神尾光臣の紹介で、各地の師団に紹介状を書いてもらい、兵士の団体鑑賞を動員し、兵営での出張映写も行う[10][11][12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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