横澤彪
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よこざわ たけし
横澤 彪
生誕
1937年12月15日
群馬県前橋市
死没 (2011-01-08) 2011年1月8日(73歳没)
東京都
死因肺炎
国籍 日本
別名横澤オジン彪
民族日本人
出身校東京大学
職業テレビプロデューサー
活動期間1962年 - 1995年
テレビ番組「オレたちひょうきん族
森田一義アワー 笑っていいとも!
「笑っていいとも!増刊号」他
肩書き「笑っていいとも!」初代プロデューサー
任期1982年10月4日 - 1987年10月2日
後任者佐藤義和荻野繁
配偶者既婚
親横澤陸郎(元朝日新聞千葉支局長)
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横澤 彪(よこざわ たけし、1937年昭和12年〉12月15日 - 2011年平成23年〉1月8日)は、日本テレビプロデューサー。通称・オジン。

フジテレビのプロデューサーとして活躍し、同局役員待遇ゼネラルプロデューサー[1]ヴァージンジャパン代表取締役社長兼務を経て、吉本興業東京本社代表、専務取締役東京本部長などを歴任。鎌倉女子大学児童学部教授を経て、晩年はフリーの立場で活動した。

群馬県前橋市出身。実父は元朝日新聞千葉支局長の横澤陸郎。
来歴・人物
生い立ち

前橋市で出生したが、父が新聞記者であったため転居・転校を繰り返した。出生後すぐに隣の長野県長野市に移り、その後も東京都杉並区新潟県新潟市高田市(現在の上越市)、秋田県秋田市神奈川県横浜市と、平均2年半に1回のペースで移り住んだ。どこへ行っても東京弁を喋る「東京っ子」として異端視され、いじめられるのは日常茶飯事で、これが「ネクラ人間横澤彪」のルーツとなった。転校が多かったため小学生時代は友達を作らない主義で、すぐ別れが来る悲しさが嫌で人を避けて映画やラジオ番組に没頭していたという[2]

自身「郷里はどちらですか」という質問が一番苦手と言い、「郷里はありません」と答えることもあり、「父は岩手、母は静岡です」と加えるとき、「群馬県の前橋生まれです」と言って済ませるとき、丁寧にすべて説明するときとあり、いずれも説明は苦痛と話しており[3][4]、いわば「多国籍」と述べたこともある[2]
学生時代

神奈川県立横浜翠嵐高等学校から千葉県立千葉高等学校に編入学。その後、浪人をし東京大学文学部社会学科に入学したが、留年したため入学以来の学友と卒業式に出席した経験がない。1962年に同大学を卒業した。
フジテレビ時代

大学時代の友人の誘いでフジテレビに入社。最初に配属されていたのが制作現場でなかったらすぐ退社していたかもしれなかったという[2]。同期入社に元同社社長の村上光一、元アナウンサーの松本みどりがいる。横澤自身必ずしもフジサンケイグループや鹿内信隆の思考に共鳴したわけではなく、面接で安保条約について聞かれた際には「何で自分の思いと違う事を答えなければならないのか。」と思ったと述べている他、入社式で鹿内信隆の挨拶に立腹し退席しかけたと著書で述べている。

若手時代には、労働組合運動に関わったことが当時フジテレビ社長の鹿内信隆フジサンケイグループ議長)の逆鱗に触れ、1970年産経新聞出版局に出向させられるなど辛酸をなめたが、この時代、同じ業界の光文社神吉晴夫から「既成概念にとらわれない」ということを学ぶ。フジテレビ復帰後の1974年に『ママとあそぼう!ピンポンパン』で初めてプロデューサーを経験し、1980年に『THE MANZAI』で頭角を現した。

THE MANZAIを皮切りに『らくごin六本木』、『スター千一夜』、『笑ってる場合ですよ!』、『森田一義アワー 笑っていいとも!』、『オレたちひょうきん族』などを手掛け、1年先輩の日枝久や、信隆の長男でフジサンケイグループ議長に就任していた鹿内春雄らと共に、視聴率低下で苦境に立たされていたフジテレビの立て直しが採られ、同時にビッグ3ことタモリビートたけし明石家さんまをスターダムへと押し上げることに一役も買った。

『オレたちひょうきん族』では、「ひょうきん懺悔室」のコーナーに神父役として自ら番組に出演していた[5]。『ひょうきん族』では、TBSテレビで裏番組として放送されていた『8時だョ!全員集合』を意識した数々の演出を行った。コントのはしばしで『全員集合』の名前を出し、揚げ句の果てには『全員集合』のオープニングテーマを流しながら「ひょうきん族がなければね」「わしもそう思う」というパロディCMを作るほどであった。『ひょうきん族』、『笑っていいとも!』などの担当番組で、「ひょうきんディレクターズ」(三宅恵介佐藤義和荻野繁山縣慎司永峰明)に代表される番組スタッフを出演させ、それまではテレビ局が積極的に番組出演させることが無かった女性アナウンサーコントの中に起用し、当時タブー視されていた楽屋落ち寸劇の中に取り込み、番組のテーマソングや劇中歌に松任谷由実山下達郎等のニューミュージックの歌手の楽曲を起用し、森田一義アワー 笑っていいとも!では、小説家の田中康夫や元NHKプロデューサーの、和田勉文化人タレントオスマン・サンコンデーブ・スペクター等の外国人タレントを起用するなど、当時としては画期的で、現在まで受け継がれているバラエティ番組の手法を多く開発した。

1987年には、『FNS27時間テレビ』の第一弾となる『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』を立ち上げ、ゼネラルプロデューサーを務める。同年9月を以って自身がプロデューサーを務めていたレギュラー番組を全て降板してひょうきんディレクターズに引き継ぎ、『ひょうきん族』は三宅、『笑っていいとも!』は佐藤と荻野、『いただきます』は山縣がそれぞれ後任のプロデューサーとして就任した。1989年には『テレビ夢列島』第3回総合プロデューサーを、1992年1993年には『平成教育テレビ』でエグゼクティブプロデューサーを務めた。また、1993年には同番組の「全国一斉公開模擬試験」に、フジテレビの生徒役で挑戦した。

役員待遇編成局ゼネラルプロデューサーに昇進したかたわら、ヴァージンジャパン[6]社長も兼任したが、1995年3月にフジテレビを退社した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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