横浜船渠
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横浜船渠全景(1935年以前の撮影)

横浜船渠(よこはませんきょ)は、かつて横浜市にあった造船所。後に三菱重工業と合併し三菱重工業横浜船渠となる。その後、三菱重工業横浜造船所に名称変更。さらに1983年(昭和58年)に造船所が本牧地区へ移転し、三菱重工業横浜製作所と改名、跡地は横浜みなとみらい21として再開発された。ドライドック2基は敷地内に残され、国の重要文化財に指定[1][2][3]されている(#沿革を参照)。
概要

江戸幕府の時代に横須賀製鉄所とともに設立された横浜製鉄所が[4]明治維新ののち明治政府工部省に引き継がれ横浜造船所となった。

イギリス人技師・パーマーは、港湾の発達には船渠(ドック)・倉庫などの付帯設備の充実も不可欠であることを説き、それを受けて渋沢栄一と地元の財界人らにより横浜船渠が1889年(明治22年)に設立された[注 1]。計3基の船舶修理用ドックが建設され(19世紀末に建設された2基は遺構が現存、20世紀初頭に建設された残り1基は1983年の使用停止後に埋立て[5][6]、当初は艦船の修理整備を主に手がけた。

その後、艦船建造も始める。北米航路の中型客船氷川丸や大型客船秩父丸(後に鎌倉丸と改名)などを建造、海軍艦艇も若干数建造している。1935年(昭和10年)に三菱重工業と合併、三菱重工業横浜船渠となる。さらに、1943年(昭和18年)には三菱重工業横浜造船所と名称変更、横浜船渠の名称は消えることとなった。

1960年代に入り船舶の大型化に対応できなくなったこと、小型船舶の修繕は中小造船所へ移行したことにより、ドックの需要が低下し、使用を停止した。造船所も1980年(昭和55年)より本牧・金沢地区へ移転を開始し1983年(昭和58年)に移転完了、閉鎖された(移転後については「三菱重工業横浜製作所」の項を参照)。
沿革現在の1号ドック
「日本丸メモリアルパーク」現在の2号ドック
「ドックヤードガーデン」

1891年(明治24年) - 有限責任横浜船渠会社設立。

1893年(明治26年) - 横浜船渠株式会社となる。(旧商法の部分施行による)

1897年(明治30年) - 2号ドック(石造)完成。

1899年(明治32年) - 1号ドック(石造)完成。

1910年(明治43年) - 3号ドック完成。日本で初となる全体がコンクリート造のドックである[5]

1930年(昭和5年) - 氷川丸竣工。

1935年(昭和10年) - 三菱重工業に吸収合併。三菱重工業株式会社横浜船渠となる。

1943年(昭和18年) - 三菱重工業株式会社横浜造船所と改称。横浜船渠の名称が消える。

1973年(昭和48年) - 2号ドック使用停止。

1980年(昭和55年) - 造船所の本牧・金沢地区への移転決定。

1983年(昭和58年) - 移転を完了し、三菱重工業株式会社横浜製作所に改称。跡地は横浜みなとみらい21として再開発される。

1985年(昭和60年) - 1号ドックと周辺が日本丸メモリアルパークとして整備され、日本丸を浮体展示開始。

1993年(平成5年) - 2号ドックが改装され、横浜ランドマークタワーの隣接地にドックヤードガーデンとしてオープン。

1997年(平成9年) - 2号ドック(日本に現存する最古の旧商船用石造ドック[7])が「旧横浜船渠株式会社第二号船渠」として国の重要文化財に指定[3]される。

2000年(平成12年) - 1号ドックが「旧横浜船渠株式会社第一号船渠」として国の重要文化財に指定[2]される。

役員
『日本全国諸会社役員録 明治35年』

取締役会長・
川田龍吉[8]

専務取締役・来栖壮兵衛[8]

取締役・朝田又七、原六郎、近藤廉平[8]

監査役・樋口登久次郎、石川徳右衛門、西村喜三郎[8]

『日本全国諸会社役員録 明治44年』

専務取締役・来栖壮兵衛
[9]


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