横浜競馬場
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横浜競馬場
旧横浜競馬場「一等馬見所」を後ろから、
コースは建物の向こう側に位置していた
施設情報
通称・愛称根岸競馬場
所在地神奈川県横浜市中区根岸台
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度25分27.8秒 東経139度38分10.5秒 / 北緯35.424389度 東経139.636250度 / 35.424389; 139.636250座標: 北緯35度25分27.8秒 東経139度38分10.5秒 / 北緯35.424389度 東経139.636250度 / 35.424389; 139.636250
開場1866年9月
閉場1943年6月10日
所有者(幕府→)
大日本帝國政府→)
日本競馬会
管理・運用者横濱レース倶樂部
日本レース・クラブ
→日本競馬会
収容能力一等馬見所:4500人[1]
二等馬見所:6000人(増築後12000人)[1]
コース
周回右回り[2]
馬場1周1764m(芝)[2][3]
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一等馬見所南側の観覧席跡

横浜競馬場(よこはまけいばじょう、横濱競馬場、Yokohama Racecourse)は、かつて神奈川県横浜市(現在の中区根岸台)に存在した競馬場1866年(慶応2年)に日本初となる常設の洋式競馬場として開設され、根岸競馬場(ねぎしけいばじょう)の名称で長らく定着していたが、1937年(昭和12年)の秋季競馬から「日本競馬会横浜競馬場」に改称され、1943年(昭和18年)に閉場された[4]。右回りの周回コースやスタンドの構造など、のちに日本各地に作られた競馬場にも大きな影響を与えた。
コース概要根岸競馬場コース図(1911-1912年)

コース形態は右回りの芝コースで、1周距離は972間(1764m)、幅員は13間(28.8m)[3]。1937年(昭和12年)時点の1周距離は1632m、幅員は15mないし26.5m[5]とされており、現在の中央競馬を開催する競馬場に比べても遜色のない大規模なものであった[2]。根岸競馬場が右回りを採用した背景には、当時江戸幕府の財政が逼迫していたため整地費用がかけられなかったことに加え、地形の関係で左回りにするとゴール前が上り坂になり、鍔迫り合いを演出することができなかったためといわれている[6]。また、根岸競馬場が右回りコースを採用したことで、のちに全国に作られた多くの競馬場が根岸競馬場に範をとって右回りを採用したため、多くが左回りを採用している外国の競馬場とは異なる進化を遂げることとなった[2]

直線はスタンド側(正面)のみで、向正面は緩やかに弧を描いている(コース図参照)。
スタンド

1889年(明治22年)から使用されたメインスタンドは1911年(明治44年)に火災を起こし、その後大きく修復され木造3階建のスタンドに代わったが、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で半壊。翌年春から仮設のバラック小屋で競馬開催を再開したものの、新たなスタンドの建設が急務となった。新スタンドの建設にあたり、根岸競馬場長ステーツ・アイザックスは東京・丸ノ内ビルヂングを建設するため1920年(大正9年)に来日した米国フラー社の主任建築士だったJ・H・モーガンに新スタンドの設計を依頼。従来のスタンドは木造の箱型建物の前面にわずかな階段状の観客席を設けただけで収容人員が限られていたうえ、観客席に柱が多かったためレースの重要な場面が見にくかったことから、アイザックス場長はモーガンに設計を依頼するにあたり、高い耐震性、格調の高い仕様に加え、左右のコーナーを見やすいような機能的に優れた馬見所という条件を提示。モーガンは関東大震災の経験から、屋根に重量をかけない構造を提案し、スタンド内の支柱を減らすことに成功。これにより、観覧席からコース全体がよく見渡せるようになった[1]

日本レース・クラブは1929年(昭和4年)春季競馬終了後の5月19日から新スタンドの改築に着手し、11月2日には8割程度完成した一等馬見所(収容人数4,500人)で競馬を開催。翌年には二等馬見所(収容人数6,000人)が竣工し、1932年(昭和7年)にはガラス張り天蓋庇を増設。庇を大きくせり出すことで前面の壁を取り払い、建物をよりオープンな状態にした。1934年(昭和9年)には激増する入場者に対応するため二等馬見所が増築され、収容人数は2倍(12,000人)になった。スタンドは鉄骨鉄筋コンクリート造地上7階・地下1階建、延べ面積7,700uで、当時としては珍しいエレベーターを3基備えたほか、馬券の発売窓口は一等・二等ともに70窓、払戻窓口は一等28窓・二等35窓を配置した。一等馬見所には最上階中央に貴賓室を設置、室内はゆったりとした和洋風で、高い格子天井には一つ一つに格調高い鳳凰が描かれた。一等馬見所は正装(和装・洋装は問わない)での入場を条件とした。これらのスタンドは港や富士山が見渡せる眺望の良さや設備の豪華さから「東洋一」とも評され、のちに全国に作られる競馬場のモデルにもされた[1][7][8]
歴史
日本の開国と近代競馬のはじまり

1853年嘉永6年)、提督マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊日本の開国を求めて浦賀(現・神奈川県横須賀市)沖の江戸湾来航したことを契機として、翌年に徳川幕府との間で日米和親条約を締結。その後1858年安政5年)に締結された日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国条約により、翌1859年(安政6年)横浜港が開港された。詳細は「横浜港#黒船来航と横浜開港」および「黒船来航#浦賀来航」を参照

条約に規定されていた開港場東海道の宿場であった神奈川(現在の横浜市神奈川区神奈川本町から青木町付近)だったが、当時は小さな漁村に過ぎなかった横浜が選ばれた。その理由は、外国人と攘夷派(外国人排斥派)との衝突を恐れた江戸幕府が、代替地として往来の多い東海道からやや離れた場所に位置する横浜一帯を整備したためとされている。こうして横浜に外国人居留地が設けられ、関内居留地(現在の山下町)や横浜新田(現在の中華街)、太田屋新田(現在の横浜市役所・横浜スタジアム付近)が埋め立てられて居留地に組み込まれ、市街地として整備・拡充されていった[9]

開港後に来日した外国人によって、日本には様々な西洋文化が持ち込まれた。その中の一つが競馬をはじめとする西洋式の馬文化であった。日常のレクリエーションとして競馬や乗馬を楽しんでいた[10]彼らは競馬に対する情熱が高く、日本でも母国と同様に競馬や乗馬を楽しみたいという思いが強かった。また、自分たちが愛する「競馬」というものを日本人に紹介したいという側面もあった[11]。横浜でも西洋式の競馬が行われるようになり、最古の競馬は横浜が開港された翌年の1860年万延元年)9月1日に元町(現・横浜市中区元町)で行われた記録が残っている。その後1862年文久2年)に横浜新田で1周1200m・幅11mの円形馬場が仮設(横浜新田競馬場)され、同年春からここで競馬が行われるようになる。これが、日本における初めての近代競馬(洋式競馬)の原型とされている[12]。しかし居留外国人が増えるにつれて仮設の競馬場は廃止され、住宅地に転用されていった。その後も仮設の施設を転々としながら競馬が行われていたが、居留外国人によって恒久的な競馬場の建設を求める声が高まっていったように、江戸時代末期から競馬場問題が外交問題になっていた[2]。詳細は「横浜新田競馬場#春の開催」および「居留地競馬#横浜における居留地競馬」を参照
生麦事件の発生と根岸競馬場の開設

日本の開国により尊王攘夷運動が活発化するなど、幕末の世相は動乱期に入っていた。そんな中の1862年(文久2年)、薩摩藩主の父島津久光の行列の前を馬に乗りながら通りかかったイギリス人を薩摩藩士が殺傷する生麦事件が発生[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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