横浜市営バス
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みなとみらい100円バス
(2009年2月7日、桜木町駅前にて撮影)

横浜市営バス(よこはましえいバス)は、横浜市交通局自動車本部が運営する公営バスである[1]
沿革
横浜市営バスのはじまり
7路線で運行開始

横浜市営バスの設立の発端は1923年大正12年)の関東大震災発生であった。横浜市電気局(現:横浜市交通局)は市電の壊滅的な被害からの復旧に追われ[2]、震災により郊外へ移っていった市民の新たな交通需要に対応することができなかった。1927年昭和2年)には市に隣接する2町7村が横浜市に編入され[3]、ますます急拡大した市域の足を確保する必要があった。そこで電気局は、市電の補助機関として路線バスの運営に乗り出すこととなった。

1928年(昭和3年)4月18日に電気局からバス事業開始についての議案が市会に提出され、市会はこれを原案通り採決した。昭和天皇の即位大礼式が行われるのにあやかり、市営バスは1928年(昭和3年)11月10日、右記の7路線で運行を開始した[4][5]

路線の総延長は30.2km[6]、料金は1区間7銭、運転手・車掌合わせて140人、30台体制にて運行開始[6][7]。一日の利用数は約1万人弱であった[6]

運行開始時の車両は、現在とほぼ同じクリーム色に青帯塗装の14人乗りフォードA型バスで、女子車掌が添乗していた[6][7][8][9][10]

1928年11月10日の開業当初の路線[4]路線名運行区間
井土ヶ谷線神奈川 - 横浜駅前 - 桜木町駅前 - 阪東橋 - 井土ヶ谷
保土ケ谷線桜木町駅前 - 平沼町2丁目 - 浅間町 - 保土ケ谷駅前 - 保土ケ谷橋
小港線桜木町駅前 - 万国橋 - 桟橋 - 山下橋 - 小港橋 - 小港
根岸線桜木町駅前 - 市役所前 - 亀ノ橋 - 地蔵坂上 - 山元町 - 滝ノ下
間門線磯子 - 八幡橋 - 滝ノ下 - 間門
三ツ沢線神奈川 - 青木橋 - 反町東横電車前 - 三ツ沢
日野線弘明寺 - 上大岡 - 吉原 - 日野

最初のバス車庫

市営バスの開業直前に、桜木町駅横の空地に桜木町車庫(現:横浜市健康福祉総合センター)の建築が始まったが間に合わず、市電の浅間町車庫の一部がバスの仮車庫として転用された[11]

桜木町車庫は1930年(昭和5年)4月15日より使用を開始したが、後に浅間町車庫の自動車施設の増強に伴い、桜木町車庫は1933年(昭和8年)3月に廃止統合された[12]

1936年(昭和11年)頃までには、当時京浜工業地帯に組み込まれていった鶴見方面の路線増強、弘明寺線・岡野町線・磯子線・豆口線・関内周り三ツ沢線といった当時の郊外線の新設など[4]、バス路線の大幅な拡張やそれに伴う車両の増強(140台ほどに増加)が行われ、市電の補助機関としての運行から、独立した運輸体系をもって事業経営にあたることとなった[13]。これを支えるべく鶴見方面の営業拠点として1937年(昭和12年)12月27日鶴見車庫を開設、翌1938年(昭和13年)1月16日に営業を開始している[13]
系統番号の付番

1928年の市営バス開業時には系統番号は付番していなかったが[8]1932年(昭和7年)には系統番号を初採用[8]、当初開通した7路線とその後新たに開通した1路線に付番し[8]、1系統から8系統とした[8]

その後は、数字ではなく片仮名の「イロハ」を冠した系統番号が付されるなどして、系統番号が統一されない時期もあった[8]。戦後の1949年(昭和24年)、当時存在した約20の路線に数字の系統番号が付番された[8]。以降、横浜市営バスでは原則として路線開通順に数字の系統番号を付番するという法則となり、現在に至っている[8]。横浜市営バスでは、首都圏で主流の漢字+数字の系統番号ではなく、数字のみの系統番号を採用しており[8][14]、現在に至るまで特徴となっている。
民営バスとの競合

当初横浜市は、市民のための公共交通は市民自らが経営すべきであるという公営交通一元論を持っていたが、これは実現せずに現在に至っている。市営バスは路線の拡大を図るべく1929年(昭和4年)に計23路線の申請をしているが[15]、これに対し後から申請した各民営バスの路線が先に認可されるなど、当時路線の許認可を取り仕切っていた県や鉄道省の理解は得られず対立していた。市営バスの開設直前には横浜乗合自動車が横浜駅 - 杉田間のバスを開業し、市内西部では相武自動車や鶴屋商会(後に相武自動車と合併)が路線を開業させていた。

当時の市内民営バス事業者名主な路線
横浜乗合自動車横浜駅 - 長者町 - 杉田
鶴見臨港鉄道鶴見駅西口 - 東寺尾 - 獅子ケ谷[16]
東京横浜電鉄東神奈川駅西口 - 六角橋 - 小机 - 川和
六角橋 - 菊名 - 綱島 - 高田 - 千年
中央相武自動車横浜駅 - 鶴ケ峰 - 長津田辻 - 鶴間 - 相模大塚 - 厚木
相武鶴屋自動車弘明寺 - 関ノ下 - 本郷村 - 鎌倉[17]
関ノ下 - 栗木 - 杉田
吉野町 - 六ツ川 - 戸塚駅
戸塚駅 - 岡津 - 阿久和
戸塚駅 - 中田 - 和泉 - 長後 - 用田 - 厚木
戸塚駅 - 原宿 - 藤沢駅
横須賀自動車杉田 - 金沢八景 - 横須賀
京浜電気鉄道品川駅 - 市電生麦終点
富士屋自動車箱根宮ノ下 - 鎌倉 - ホテルニューグランド
・1935年に横浜乗合自動車と横須賀自動車は合併、湘南乗合自動車に改称
・1936年に湘南電気鉄道が湘南乗合自動車を買収、1941年に京浜電気鉄道に合併
・1938年に相武鶴屋自動車が東京横浜電鉄の傘下に入る
・1939年に相武鶴屋自動車が中央相武自動車を合併、東海道乗合自動車に改称
・1942年に富士屋自動車の後身、富士箱根自動車が東京横浜電鉄の傘下に入る
・1943年に東京横浜電鉄は京浜電気鉄道を合併、東京急行電鉄に改称
・1944年に東海道乗合自動車は神奈川中央乗合自動車に改称
・その他、百貨店「野澤屋」が市内に無料送迎バスを運行

1932年(昭和7年)には公営一元化の方針の下に、鶴見駅 - 汐田・安善町方面の路線を運行していた鶴見乗合自動車を買収し、同年7月1日から鶴見駅 - 安善町間を市営バス路線として開設している。しかし民営会社の買収はこの1件にとどまった。横浜乗合自動車が路線売却の方針を示した際、市と会社との交渉が行われたものの価格面で折り合えず、湘南電気鉄道が買収することとなったり、1936年頃に鶴見臨港鉄道の鶴見駅 - 獅子ケ谷間路線の売却話があった時も交渉がなされたが、これも不調となるなど失敗に終わった。1935年(昭和10年)には10社以上の民営バスが市内を運行しており[17][18]、実際に市営バスで統一するには難しい情勢であった。

バスの公営・民営競合は横浜市だけの問題ではなく、1934年(昭和9年)には六大都市電気局長協議会において「公営バス保護並びに民間バスの統一を目的とした強制買収に関する規定設置請願」が決議され、1935年(昭和10年)にはこの「民営バス強制買収法案」が国会に提出されるまでに至った。これには各民営バス事業者が猛反発し、陳情書を鉄道省貴族院衆議院両院、各政党に提出して激しく反対運動を行うなど大論戦になったが、結局この法案は審議未了のまま廃案となった。これには、既にガソリン統制問題が浮上してくるなど、バスを含む運送事業・自動車産業が戦時下の険しい時代に突入しようとしていた背景があった。


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